歩く、
一歩ごとに変わる景色、
この角を曲がれば何があるのだろうか、
あの坂の上まで登れば何が見えるのだろうか、
最良、最善の旅は徒歩。
はじめに
言葉の説明:Camino、Santiago、Santiago de Compostela
Caminoはスペイン語で「道」という意味です。SantiagoはSaint(聖)Iago(ヤコブ)のことです。すなわちキリストの12使徒の一人である、ヤコブが最初の殉教者となり、当時殉教者は列聖されて聖ヤコブSant Iagoとなりました。Compostelaは、造語でCampo(野原)Stella(星)、つまり「星の野原」に聖ヤコブの遺骸が発見され、そこに教会を建てたのが、現在スペイン北西部にあるSantiago de Compostela という説が有力です。(諸説あります。)巡礼が終わると巡礼証明書がもらえます。この巡礼証明書もCompostelaとよばれています。巡礼の歴史などの詳細については、https://camino-de-santiago.jp/go-santiago/about-santiagoを参照ください。
巡礼路
Map of the way of St James In Europe
(https://en.wikipedia.org/wiki/Santiago_de_Compostela#/media/File:Stjacquescompostelle1.png)
by Manfred Zentgraf, November 18, 2006. Creative Commons BY-SA 3.0 license.
サンティアゴの遺骸が発見された場所に教会を建て、9世紀初めに最初に巡礼を行ったのは、スペインの北部にあったアストゥリアス王国の王様で、アルフォンソ2世だと言われています。アストゥリアス王国の首都オビエドからの巡礼路は「最初の道(カミノ・プリミティボ)」とよばれる様になりました。これ以降、いろいろな巡礼路ができ、今では全ヨーロッパを網の目のようにカバーしています。(これはその一部です)
私の巡礼経験
日本で巡礼と言えば、四国88ヶ所1200㎞が最もよく知られています。私は88ヶ所の巡礼路に面した家に生まれましたので、幼少の頃からお遍路さんを見て育ち、成人の暁には88ヶ所を回るのが家のしきたりでした。現実的には海外駐在が長かったため、2003年に定年を迎えるとともに88ヶ所に旅立ち、高野山お礼回りも含め約50日で結願しました。二度目の88ヶ所は、2018年に渡米50年記念として、やはり歩いて回りました。
カミノ巡礼については、2010年ごろに友人から聞いたと思います。それから準備をはじめ、一時帰国の際には「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」にも入会し、この時には、88ヶ所と同じ1200㎞とし、「アルルの道」のトウルーズからサンティアゴまでの1200㎞を歩く計画でした。古希記念として2013年5月17日、トゥールーズを出発、5月26日にはピレネー連山がきれいに見えるMarciacの手前まで来ましたが、ここで車にはねられ救急車でAushの病院に入院、左上腕骨折で手術を受け、やむなく帰米しました。フランスはしばらく置いて、スペイン国内「フランス人の道」をまず歩き、サンティアゴに行こうと、2015年5月14日、フランス/スペイン国境のSaint Jean Pied de Portを出発、6/28に無事サンティアゴにて結願しました。
尚、文中に、日本の巡礼用語を使っておりますので、説明します。
結願(けちがん): 願いが結実すること、すなわち目的が達成できること。
区切り打ち: 一度に全部回らずに、一部の区間を回ること。
通し打ち: 全行程を一度に回ること。
今回歩く道
今回は、「アルルの道」790㎞、「アラゴンの道」170㎞、フランス人の道の途中、プエンタ・ラ・レイナからサンティアゴまでは「フランス人の道」680㎞、合計1650㎞の旅となります。フランス国内では、北からパリ、ヴェスレー、ルピュイ、アルルなどがあります。このうち、旧勤務地イタリアに近く、イタリア人がよく通る「アルルの道」を選びました。アルルの道は、南仏プロヴァンスのアルルを出発し、790㎞を歩いてピレネー山脈のソンポート峠で終わります(第1章ー第6章)。ソンポート峠でスペインに入り、プエンタ・ラ・レイナまで170㎞アラゴンの道を歩きます(第7章)。ここから目的地のサンティアゴまで、680㎞の「フランス人の道」を行きます(第8章ー第11章)。
序章
5/28-5/31
歩き出すまで
5/28 パリへ
その日が来ました。パリに向けて発つ日が来ました。何度となく入れたり出したりした荷も、これで終わり。最後にかなりのカットをして、カミノの制限重量20㎏にしました。雷雨の後の雨がやまない中、妻に私の写真を撮ってもらい、雨の中を出発しました。長女尚子とご主人のBarryがカミノの最後の100㎞を一緒に歩いてくれるので、彼らと共に帰着するフィラデルフィア空港から出発します。尚子の家に着くと、サプライズで次女の育子一家も来てくれて、ともに見送ってくれました。空港では、尚子がご主人のBarryと見送ってくれ、尚子はチェックインも手伝ってくれました。
その後もスムーズにいき、飛行機は定刻を30分ほど遅れて離陸。座席は満員でほとんどがマスクをしていました。映画を見ているうちに寝てしまいました。
5/29 パリ-アルル
フライトは昼の12:30にシャルル・ド・ゴール空港に着きました。家族にパリ到着の電話を入れました。リヨン駅発のTGVは午後5:41発です。リヨン駅よりも、空港の方が安全だと思ったので、空港を3:30にタクシーで出ました。高速道路の渋滞はひどいものでした。パリ周回高速に入ると一層ひどくなったので、運転手は高速道路を捨てて地道に降り、リヨン駅には4:45に着きました。それから、出発のホームが決定されるのを待って、電動掲示板をにらんでおりました。5:20 ごろになって、掲示板は私の汽車がプラットホーム C から出ると表示したので、そこへ向かいました。同じ列車に乗る人たちが、一斉にそこへ向かいますので、押し合いへし合いになりました。理由は、ホームに入るにはチケットのQRコードを読んで入るのですが、コードを読むのが遅い為でした。列車は定刻に静かに発車し、静かに走りました。速度は日本の新幹線並みですが、静かで振動が少ないTGVの方が、私は好きです。アルルには、四時間で着く予定のところ20分遅れて到着しました。乗客は地下通路に降りて、通路を歩き、又階段を登るのですが、階段なので20㎏のスーツケース2つを同時に運ぶことができません。幸いにも、若い人が助けてくれて、よかったです。予約してあったタクシーに乗って、10分後にはホテルに入りました。家族に電話しましたが、電話は通じませんでした。
5/30 アルル
ホテルで朝食をとり、このローマ人の町を見学に出かけました。巡礼が、出発地でまずしなければならない事は、クレデンシャルをもらう事です。これは、巡礼の身分証明書兼通過地の証明で、道中各所でスタンプを押してもらい、サンティアゴに着いた時に見せて、「確かに巡礼路を歩いてきましたので、巡礼証明書をください」と言う時に使います。旅行社Walk The Camino(WTC) のかねてよりの助言により、The Church of Saint Trophimeに行って、係の人にクレデンシャルの交付をお願いしました。係の人は、私よりも年長と見受けました。彼は教会にはクレデンシャル用紙はないが、自分が用紙を持っているならスタンプは押せると言いました。私はこの教会のクレデンシャル用紙があるはずと思いましたが、一応彼の言うとおり、WTCがくれたクレデンシャル用紙にスタンプを押してもらいました。これで、巡礼の最初の仕事は終わり、ランチに行きました。
昼食後、ローマの遺跡を見に行きました。特に円形闘技場には一番に行きました。円形闘技場の切符売り場の係は、地図をくれ、そこにはカミノのルートが書いてありました。ローマ時代からの墓地であるAlyscanからカミノが出発しているのが分かりました。さらに、係の人はChurch of Saint Trophimeは、私にクレデンシャルを発行すべきであると言いました。闘技場を一応見学してから、教会に戻りました。今度の係の人は、朝の人よりも少し若いようでした。彼にクレデンシャルを発行してほしいとお願いすると、勿論、と言ってこの教会のクレデンシャル用紙に捺印して交付してくれました。戻ってきてよかったです。言葉の端々に、イタリア人ではないかと思わせるものがあったので、聞いてみたらそうでした。それから別れるまでいろいろとイタリア語で話しました。彼は、是非Alyscanへ行ったらいいと言い、道順を丁寧に説明してくれました。20分ぐらい歩いて行ってみました。地図にはカミノの起点と書いてあり、アルルの道の起点に着いたのでとても興奮しました。入口の係の人は、クレデンシャルにスタンプをくれて、巡礼は入場無料だと言ってくれました。彼女は、Saint Trohime の Cloisterに行ったらいいと勧めてくれました。Alyscanの中には、石の棺桶が沢山並んでいて、以前はゴッホ、ゴーギャンなどが絵を描きに来ていたそうです。墓地の出口付近に、確かに左Saint Jaques de Compostelle 1560km 右Rome GR653D 1364kmとの表示がありここが起点とわかりました。同時に、私の次の巡礼の目標が「アルル―ローマの巡礼」となりました。Saint TrophimeのCloisterに寄ってスタンプをもらいました。それから、出発後の道順を確かめるために、地図の通りに歩いてみました。カミノが市内のどの道を通るのか地図によって少しずつ違うのですが、それは無視して、川を渡り、歩道のない自動車道をしばらく歩いてみました。これは、大きな町では町中に道標が少ないため、町を出るときに迷うことがあるので、事前に歩いておくとその心配がないためです。Evianを3リットル買ってホテルに戻りました。携帯電話はまだ通じないので、ホテルの電話で長女の尚子と話していろいろやってみましたが、繋がりません。ホテルのフロントにもヘルプを頼みましたが、やはり通じませんでした。
5/31 オランジュ
朝は霧雨が降っていました。9:40発の汽車でオランジュに行きました。同窓会パリ支部長の康子さんに会うためです。まずローマ人が建てた「凱旋門」に案内してくれました。よく保存されているようですが、左半分は彫刻がすり減っていました。
それから、彼女のお住まいの近所のレストランで食事をしました。フランスのこと、日本の事、学校の事、同窓会のことなどを話しました。それから古代ローマの円形劇場を見学に行きました。今でも劇場として使われていて、夏には音楽祭が催されるそうです。2:36の汽車でアルルに戻りましたら、晴れていました。St. Julien Church、Notre Dame de la Major Church に行ってみましたが、閉まっていました。アルルの円形劇場にも行きました。夜は日本料理を食べてみましたが、あまり気に入りませんでした。尚子からメールが入り、携帯をいったん切って再びONにすればいいとのことで、その通りにすると電話は回復しました。
(オランジュの凱旋門)
第1部
Camino Arles
アルルの道、フランス
Via Arles、Via Torosana、GR-653など名前は種々ありますが、通常南仏のアルルからピレネー山脈、ソンポート峠の間の約800㎞をさします。主要な通過地は、Montpellier、Castes、Toulouse、Auch、Orolon Saint Marieなどです。ここを歩きながら、フランス人はなんと幸せな人たちなのかと思いました。それは、地味の肥えた大地と、ピレネー、中央高地、それにアルプスから流れ出る河川によって潤され、豊富な食糧が生産されているからです。ラテン系3国(イタリア、フランス、スペイン)の中では、最も富んでいる国でしょう。
2000年前、ローマ人、ユリウス・カエサルがアルプスを越えて当時ガリアと呼ばれていたフランスに遠征し、ローマに服従しない部族はライン川の彼方に追いやって、服従するものはローマ市民権またはラテン市民権を与えられました。それ以来、Pax Romana(ローマによる平和)に組み込まれ、外敵の心配がない状態で生産にいそしむことができたのは、まことに幸運であったと思います。また、地形的にも南東側はアルプス、南西側はピレネーの間で、温暖な気候にめぐまれ、地震、台風、洪水などの危険もほとんどなく、しかも人が生きていくうえで必要なものが揃っているというまことに恵まれた土地だと思います。
アルルの道は、次の6章です。
- 第1章 6/1-6/6 Arles-Montpellier ローヌ川の平野を歩く
- 第2章 6/7-6/20 Montpellier-Castes 中央山地を越える
- 第3章 6/21-6/28 Castres-Toulouse ガロンヌ川流域を歩く
- 第4章 6/29-7/4 Toulouse-Auch 懐かしい道
- 第5章 7/5-7/12 Auch-Pao ピレネーが見える道
- 第6章 7/13-7/19 Pao-Candanchu 待望のピレネー越え
第1章 Arles―Montpellier 6/1-6/6
ローヌ川の平野を歩く
この間は、基本的にはローヌ川によるデルタの上を歩きますので、平地です。中都会のアルル(人口5万人)大都会のモンペリエ(人口28万人)の間に人口数千人ぐらいの村が点在していて、軽工業、運輸業などの商業地域と、ブドウ、野菜、小麦などの畑が主な土地利用となっていると見受けました。IGN10万分の一の地図171と170でカバーされています。
6/1 Arles – Saint Gillet 20.9km 初日、欧州の熱波に遭遇し、立ち往生
6月1日、1600㎞の出発にあたって、ローマ時代の墓地、アリスカン墓地にあるアルルの道の起点から出発しました。
それからPont Neuf(新しい橋)でRohne川を渡ってアルルを出発。いよいよ巡礼の始まりです。この日から熱波で気温が30度を超え、大変な暑さとなりました。午前中はまだよかったのですが、Gimeauxという村を過ぎ午後になって道路C-113にかかると、道路からの照り返しがきつく、風もなく家もなく木もなく陰もなく人一人いないカンカン照りの野中の一本道で、まして休憩用のベンチなどどこにもなく、昼食の際には地面に座って食べました。水は2リットルもっていったので、十分だと思っていました。しかし、午後二時ごろにはあと200㏄になってしまいました。困ったと思っていたところ、Saint Casaire修道院前にたどり着き、その前の道路わきに水場があり、たらふく飲んでボトルに補充しました。大変ありがたかったです。
小ローヌ川を渡った時点では18㎞は来ていました。ここまではよかったのですが、そこからが大変でした。多分熱中症か日射病だったんだろうと思いますが、2㎞ほど行ったら動けなくなり立ち往生です。たまに通りかかる車はあるのですが、三台は止まってくれない。止まってくれた車は二台あり、乗せてくれ、またはタクシーを呼んでくれと頼みましたが、いやだ、すぐだから歩けというのです。やっとのことで、親切な若い男性に乗せてもらいました。本当にあと1㎞しかなかったのですが、動けないという経験は初めてでした。宿について、水を飲んで2時間ほど休んでいると、常体にもどり、ほっとしました。以降、水を3リットル持つことにしました。また、この日の距離は20.9㎞だったのですが、20㎞を超えると要注意だと自覚しました。前回7年前のスペイン巡礼では、25㎞はおろか30㎞超でも難なく歩けていたのですが、7年の間に老化が思いのほか進んでいたのがここでわかりました。そこで、今後20㎞を超える場合には、躊躇なく乗り物に乗る様に心がけることにしました。巡礼には一人だけ会いました。
6/2 Saint Gillet-Vauvert 16.9㎞ 修道院から出発
昨日の経験から学び、3.4Lの水と大きなサンドイッチを持って行きます。当面不要なものをスーツケースに移し、バックパックを軽くしました。それから、GPSをあまり信じないことにしました。今日の巡礼は、 The Abbey of Saint-Gilles (French: Abbaye de Saint-Gilles ) から始まります。修道院なのでとても大きく見えたのですが、サンジレは多くの人に敬われているのでなあと思いました。係の人はとても丁寧にスタンプを押してくれました。
10の鐘が鳴っている最中に出発しました。農道の中を行きます。バイカー(サイクリスト)が多いので、にぎやかに思えましたが、歩き巡礼は2名に会っただけでした。それでも昨日よりはましでした。しかし、それも最初の1/3の間だけで、あとの2/3は誰にも会いませんでした。砂利道または土の道で、登り下りがあります。
昨日のように暑かったのですが、ほぼ2倍の水を持ってきたので、昨日のようには疲れずにすみました。しかし、すべてのことがよかったわけではなく、宿が駄目でした。食堂がついてなくて、宿の亭主は英語ができないばかりか、8時になると自宅に帰ってしまいました。どこで夕食を食べていいかわからず、村の中央で開いているバルで食堂のありかを聞きました。幸いにも彼の英語はOKで、食堂が見つかり食事ができました。今日は距離が16.9kmと短く、これで、17㎞までは大丈夫と判明しました。
6/3 Vauvert 休養日
過去の経験から、二日歩いた後で休みをとりました。体がまだ長時間の歩行に慣れていないので、徐々に慣らしていく必要があり、ここで休みをとったのは、大正解でした。寝たいだけ寝て、洗濯したらお昼になりました。出かけると、筋向いにパン屋さんがあったので、サンドイッチで昼食にしました。クレデンシャル(巡礼手帳)にスタンプを押してもらうために教会に行きましたが、教会の人はいませんでした。巡礼が一人、教会のベンチに座っていました。60歳ぐらいの教養のありそうなフランス人のご婦人で、英語もちゃんとできました。
(Vauvertの簡素な教会)
彼女がツーリストオフィスにいったらと教えてくれたので、行ってみました。ここでは、なかなかはきはきとした頭脳明晰そうな30代のご婦人が二人いて、いろいろ教えてくれました。明日は、24㎞もあるので、全部歩くのは時間がかかりすぎることから、タクシーを予約してもらいました。宿に帰り、メールのチェックとブログを書いて、夜は、昨晩と同じレストランで食べました。
6/4 Vauvert-Saturagues 24km オランダ人カップルに会う
Codognanという村まで約8㎞の間車に乗り、村外れから歩き出しました。畑の外側をめぐる農道から、倉庫などがあるIndustrial Areaになり、2時間で丘の上の村、Garaguesに着きました。なかなかいい村のようでした。それから、La Vidourle川とその堤防にいきあたり、堤防はかなり高いものでした。堤防にそって炎天下、暑くて、乾いた道を一時間以上歩きました。橋に着きましたので、川を渡りました。川の西側はVilletelleという村で、ピクニックベンチがありました。そこで休んでいましたら、本物の巡礼と思しきカップルがやってきました。背が高く勿論、オランダ人で、数か国語を話すみたいでした。ローマからイタリア・フランス国境まで歩いて、二週間サルデニア島で休養し、アルルからまた歩き始めたとのこと。足が速い人たちでした。
(Velletelle西側の丘)
不思議なことに、この人たちにはこれから何度かお会いするのですが、この時には知る由もありませんでした。私の1600㎞なんかは、彼らにとっては児戯に等しいものでしょう。徳川時代に、日本は鎖国をしながらも、オランダとは通商していたという理由がなんかわかりそうです。私が先に出発し、丘を登り始めました。丘の頂上で彼らに追い付かれてしまいました。とても早く歩く人たちで、易々と私を抜いていきました。丘の上からの眺めは、とてもきれいでした。しかし、下りは石がゴロゴロしていて、中級程度のハイキング技術がいると思いました。麓では、道標が矛盾した表示をしていて、私はカミノから外れて歩いていました。それでも目的地の宿には着けました。民宿のようなもので、宿の亭主は、おいしい夕食を作ってくれました。おかげで今日の16㎞は難なく歩けました。
6/5 Saturagues-Vandargues 15.0km 不親切な宿
途中に教会があれば、なるべく寄る様に心がけています。小さな町には小さな教会があります。ただ、小さな教会はほとんどの場合閉まっていました。この日も3か所ぐらい教会がありましたが、外側から写真を撮りました。昼食調達の為に、Inn-Keeperの奥さんと、サンデー市場に行き、サンドイッチを作ってもらいました。
Saturaguesの村を抜け、次の村Vararguesの村を出るときに、標識が見つからなくて道を間違え、45分ほどロスをしました。おかげで村の遠景写真が綺麗に撮れましたが。正しいカミノを行くと、巡礼のカップルに会いました。高台にあるSant Christoの村に登って、又降りました。降りてしばらく行くと、GR653の標識がありません。ということは道を間違っているわけで、地図とGPSで正しいカミノに戻り、La Bruyereまで来ました。この村を出るための次の交差点で、GPSも地図も左折するようにとの表示ですが、現実的にはその道は通行止めの鎖がかけられています。こんな大切なところにGR653の立て札もありません。三度目の間違いを起こすのは御免ですから、今日はここで切り上げ、宿に電話して迎えに来てもらいました。宿はカミノから外れているCastriesという村にあるので、遅かれ早かれPickupしてもらう必要があったのです。
(高台にあるSant Christoの村)
この日の宿は食事の提供がなく、宿主は私にレストランを紹介して帰宅してしまいました。紹介されたレストランに行くと、予約で一杯ですと言うのです。何とかせよと言うと、近所のPizza屋のPizza なら調達できるというので、仕方なくそれにしました。このような、無責任な宿には泊まりたくありません。明日はいい日でありますように。
6/6 Vandargues-Montpellier 14.7km 大都会に着く
らう必要があり、いつまでたっても運転手の用意が出来ません。やっと、30歳代の大男が運転するそうで、何でもいいから早く出たい思いでした。彼はGPSも読めず、方角もわかっていないので、私が指示をして、やっと出発地のVandaguesに着きました。その時教会の鐘が10回鳴りました。昨日の経験から、違った道を行かないように注意して歩きましたが、今日は標識があるべきところにはちゃんとあり、終日正しい道を歩けました。市街地なのでトイレがなく、仕方なくバルに入って欲しくもない飲み物を買いました。モンペリエは人口28万人の大都会で、パリのような胡散臭さがあります。物貰いもいて、町中を歩くのにも注意が必要でした。
(モンペリエ、オペラ劇場前の停留所)
モンペリエに入ってしばらく行くと、街角で老人が私の肩にかけているカメラをみて、かっぱらいに会う前に仕舞った方がいいと言いましたので、そうしました。宿には4時に着き、6時間で15㎞歩きました。これは時速2.5㎞で、終日舗装道路を歩いたため、比較的早く歩けたのです。
洗濯を終えてから、Saint Roch Churchに出かけましたが閉まっていました。教会の前で食事をしました。戸外で食事をしている途中で雨が降ってきて、雨の中を宿に帰りました。Vandargues自体Montpellierの郊外みたいなので、今日はずっと都会の道を歩いている感じがして、私はあまり好きではありませんでした。市街地は歩かないで乗り物に乗るという巡礼がいますが、その人の気持ちがよくわかります。
第2章 Montpellier–Castes 6/7-6/20
中央高地を超える
Montpellierは、ローヌ川流域にあり、Castresはガロンヌ川流域にあります。両者の間には、1000m前後の低い山塊、Massif Central,中央高地があり、これの南端の1000m程度の山々を超えていきます。山襞から流れる川に沿って村が点在し、流域をまたぐ際には山越え、峠越えをします。つまり、このモンペリエとカストレ間は登ったり下ったりの連続です。この中央高地山塊を超えると、次はピレネー山脈までほぼ一か月間平地を歩きます。この広大な平地が豊かな実りをフランスにもたらしていると、思われます。Montpellier-Lodeveの間は、IGN10万分の一の地図170、以降Castes までは169に載っています。
6/7 Montpellier-Montanaud 19.9km アルルの道の実質的出発点
Montpellierは大都会だけあって、観光スポットは数多くありますが、観光旅行に来たわけではないので、もう一度、Church of Saint Rochに行きますと、3時から開くと書いてありました。次にCathedrale of Saint Pierreに行きました。美しく大きな教会という感じを受けました。中でもパイプオルガンは巨大でした。
(Cathedrale of Saint Pierreの巨大パイプオルガン)
最初の日に、日射病になったのは、半そで、半ズボンがなかった、水を頻繁に飲むためのCamel Backがなかったという反省から、タクシーで郊外の運動具店に行き、それらを調達しました。Montpellierは、実質的なアルルの道の出発点で、郊外のGabelsの村からは、本格的な巡礼の道が始まりました。この村からは、巡礼の数が少し多くなり、村の出口にあるこじんまりとした教会では、5名の巡礼に会いました。1時前に出発し、10. 4kmの山道を歩きました。途中、太陽電池の大掛かりな発電設備がありました。 Montenaudの坂の上の民宿に5時過ぎに着きました。夕食はシンプルなものにしてほしいと頼んだら、その通りにしてくれました。
6/8 Montanaud-St. Guilhem Le Desert 21.3km 中世の村
今日は20㎞を超えるので、最初の5㎞は車に乗り、Bossiereから歩き出しました。久しぶりに曇り空です。半そで、半ズボンを着る最初の日に、気温が高くないのは皮肉です。最初の8㎞は静かな道で、道標もちゃんとしていました。Anianeの村で、はじめてレストランで昼食をとりました。
(L’Heraulf川を渡る橋)
次の2㎞は石だらけの道で、その次の2kmは舗装道路でした。St. Jean de Foeの近くにL’Heraulfという川を渡るきれいな橋があり、これを渡りました。ここからは、両側から山が迫り、川沿いに4㎞北上します。目的地は、その川の支流に肩を寄せ合うように小さな家々が集まっている村でした。宿は、この中世の村の中央広場に面していました。
6/9 St. Guilhem Le Desert 休養日
あまりにも天気がいいので、3時間ばかり登って、展望を楽しみました。今日は休養日なのですが、翌日の距離は23㎞もあり、しかも山を2つ越えなければなりません。足の遅い私にとっては2日が必要です。これを克服するためには、今日一日寝そべっているわけにはいきません。明日は、おそらく二回目の山越えで一日かかるとすれば、今日中に一回目の山越えをやっておく必要があります。Max Negre、 標高495mへ二時間ほどで登りました。非常にいい道でした。
(Max Negre標高495mからの眺望)
麓の標高108mから標高480mの間、一定の勾配を保っていて、とても登りやすかったです。目的地のMax Negre標高495mからの眺望は素晴らしく、南の平野が遠くまで見渡せましたし、北側の山の連なりがとてもよく見えました。アルルを出て初めての山登り、中央山地初めての登りでした。ここでランチをし、麓に降りて中世の村を見学しました。両側から山が迫る狭い川岸の村なのですが、教会にはクロイスターがあったのには感心しました。
6/10 St. Guilhem Le Desert-St. Jean de la Balaquiere 23km 山越え
Arborasから歩き始めました。ここは、今朝の宿泊地Saint Gilhem からカミノの距離で13.6㎞のところにあります。そのうち9㎞を昨日歩きました。目的地のSt. Jaenまでは9.4㎞です。最初はブドウ畑の間の農道でした。
(Parking de Roc des Deux Vierges付近の眺望)
それからアスファルト舗装の道になり、それと別れて砂利道になり、最後は、Parking de Roc des Deux Viergesから登山道になりました。この登山道は設計が悪い、もしくは設計がなかったと思われ、不必要な登り下りとか回り道などがあり、とても歩きにくい道でした。本日の道の最高点は453mで、昨日よりは低いですが歩きにくい道でした。殊に、午後には気温が高くなり、降りるにつれて熱風の中に入っていく感じでした。降りたところが目的地のSaint Jean de la Balaquiere の村でした。宿は村の中心から1㎞先にありました。
宿の設備はよかったのですが、食事がありません。宿守に聞きましたら、村に戻ればPizza売りのトラックが来ているはずだから、そこで食べろと言うのです。シャワーが終わっているのに、また山靴を履くのは嫌でしたので、クロックスで砂利道を歩いてPizzaを買いに行きました。クロックスは十分期待に応えてくれ、優秀な履物だと知りました。村では、村人が100人ぐらい出ていて、何かのお祭りの様でした。
6/11 St. Jean de la Balaquiere-Lodeve 14.1 km さらに山越え
(Sumont村上部からの眺望)
今日は距離が短いので、宿から宿まで歩きます。最高点も427mなので、昨日とほぼ同じです。St. Jean から7㎞の山中に、Grandmontという古い修道院跡が復元整備されているので見学しました。途中のSoumontという山の上の村で、若い20歳代のイタリア人男性の巡礼に会いました。ここには、十字架が立っていて、素晴らしい眺めでした。この青年はBresciaというミラノとベニスの間にある町から、ずっと野宿で歩いているそうで、荷物は20㎏ぐらいあり、今日までで1000㎞ぐらい歩き、これからサンティアゴまで2500kmぐらい歩く予定との事でした。彼とのイタリア語の会話はとても楽しかったです。若いということはいいことですね。
Sumontからの下り道は、人が通った事が無いかの如く、歩きにくい道でした。今日も、気温が高く、Lodeveに着くころには、持参の水がほとんどなくなっていました。Lodeveの教会は、とてもいい教会で、村もよさそうな村と見受けました。ところが、宿は古くて部屋は狭くて階段は急で、いい所はありませんでしたが、食事は作ってくれました。LodeveでIGN10万分の一の地図170が終わり、169が始まります。
6/12 Lodeve-Lunas 26.4km 宿で歓迎
(レストラン、Chateau de Lunas)
今日は26㎞を超える長い距離で、しかも峠越えなので、宿の標高171mから634mの峠まで車に乗りました。峠までのカミノの距離は12.2㎞で、峠から目的地までの距離は14.1㎞です。Col de la Baraque峠から9:40に出発、自動車道D142を2㎞ほど行くと、カミノは農道に入ります。本日の最高点691mのCroix de Luchideに着き、これから下りとなります。ここから小川の標高411mに着くまでの標高差約300mの砂利道はかなり厳しいものがありました。小川に着いてからは、小川に沿って下りました。カミノはJoncelsという村を通っていますが、遠回りしてその村を経由しなければならない理由もないので、小川に沿って舗装道を下りました。道は自然にLunasの村に入り、3:20ごろに着きました。宿に着くと、「あなたの来るのを二年も待っていた。」と大変な歓迎を受けました。確かに、コロナの前から計画していたので、二年待ってもらったことになります。宿は改装中のため、食事は川向かいのChateau de Lunasという、以前はお城であったレストランを予約をしてくれていました。とてもいいレストランで、おいしい食事でした。ここで、Kir酒というのをはじめて頂いて、フランスを歩く間はよくこの食前酒を頂くようになりました。(スペインに入ると、このお酒はありませんでした。)
6/13 Lunas 休養日 チベット仏教寺院
これは、前日Lodeveのホテルでも聞きましたが、こんなフランスの山の中に仏教寺院があるそうです。今日のホテルの人は是非にと勧めてくれたので、行ってみることにしました。前日にはホテルオーナーのお嬢さんが車で連れていってくれるとのことでしたが、用事ができたとのことで、タクシーにしました。昨日の峠まで登り、さらに北に向かいます。道路は稜線伝いにつながっているので、景色がとてもいいのです。峠にもありましたが、仏教寺院へ行く標識もちゃんと出ています。到着すると、案内所があり、月曜は閉館なので、外から見てくださいと、はきはきとした英語で言ってくれました。多分、英国人だと思いますが、Kings Englishの訛りはありませんでした。私が真言宗と日本の巡礼を少し説明し、般若心経を唱えると、彼女も唱和してくるのには驚きました。おそらく仏教関係に造詣の深い人なのでしょう。ダライラマ猊下も時々お見えになるそうで、彼の使う部屋も用意されているとのことでした。ホテルに戻って洗濯をし、ブログ、メールなどをキャッチアップしました。
(チベット仏教の寺院)
このLunas という村は、日本で言えば落合とか追分、出合とかよばれるであろう合流点/分岐点で、三本ほどの川と街道がこの村で合流しています。従い、村は街道沿いに細長くのびていて、その昔はこの付近を領していたであろう領主の館、Cahteau de Lunasを改造したレストランが、川沿いに優雅な佇まいを水面に写しておりました。
宿から橋をわたって対岸のレストランに入ると、川のそばの席に案内され、川面を渡る風の涼しさを楽しみました。メヌーによると、ワインも豊富で、Kir酒から始め、白、赤と進めました。日の高いうちから飲みはじめて、料理は、前菜から主菜、デザートに進みます。今回のカミノでは、主菜を選ぶに当たっては、魚があれば必ず魚料理を選びました。接客態度も味のウチですが、鍛え抜かれたギャルソンの仕草には無駄がなく、とても優美でした。食事中に夕日がおちて、宵闇が迫るころ川向の宿に帰りました。足元が少し怪しかったかも知れません。
6/14 Lunas-St. Gervais sur Mare 27.8km 本格的な山登り
今日も距離が長いので、平地を10キロほど車に乗り、山道を17㎞ほど歩きました。現金を出そうと思っても、Lunasに銀行はありませんでした。平地の途中、Le Bousquest d’Orbの銀行ATMで止めてもらい、現金を出しました。標高300mぐらいのServiesという村から登り始めました。かなり本格的な山登りで、まずCol de Servies標高838mに着きました。そこからは稜線を伝って西に登り、944mの本日最高点に着きました。ここにはピクニックテーブルがあったので、ランチをしました。
(Col de Servies標高838m付近から南側を望む)
頂上稜線からは、南側のきれいな景色が見えましたので、写真を沢山撮りました。Col du Layrac標高701mから、南に下る様に方向が変わりました。同時に下りの勾配もきつくなり、また大変暑くなってきました。急な下りのせいで、足の痛みが出てきました。休憩回数を増やしたり、テープを貼ったり、いろいろ工夫してなんとか痛みをコントロールしました。
Mecleという集落には水場があり、有難く飲ませて頂きました。ここから目的地St. Gervisの村までは、カミノが近道ですが山道、舗装道路は遠回りだが下りが緩やかで、どちらを取るか迷いましたが、カミノの山道を行くことにしました。これはいい決断でした。村は標高322mで、カミノは410-438mですから、おかげで上からきれいにSt. Gervisの村が見えました。川に沿って長くのびる村の道を歩き、宿に着いたのは18:40でした。Caféが19:00に閉まるからと宿の亭主が言うので、急いで食べに行きました。
6/15 St. Gervais sur Mare-Murat sur Vebre 23.9km 中央高地の最高点通過
今日も20㎞以上の行程なので平地は車に乗り、Col du Ginestet で降りて、雨にならないかしばらく様子を見ていました。空はどんよりとしていて、雷鳴が聞こえていました。峠で男性2人、女学生4人に会い、スナックを交換して食べました。歩き出してから、フランス人の年配の婦人と、若いドイツ人の女性エレナに会いました。この8人は、私よりも早く歩くので、1kmほど先の民宿のカフェでお茶をしていました。それにJoinさせてもらいました。8人の内訳は、Castresまでの区切り打ちのフランス人女学生4人、フランス人で俊足の老婦人1人、ドイツ人男性1人、サンティアゴまで行くというエレナ、ロシア人男性1人でした。そのうち晴れてきましたので、俊足のフランス人の老婦人と足の遅い私が先に出発しました。カフェからすぐに深い森にはいり、写真が撮れないほど暗くなりました。
(中央高地越えの最高点でもある標高1019m付近)
老婦人はどんどん先に行ってしまいました。私はしばらく一人で歩いていましたが、やがて後から来た7人に追い越されました。深い森の中を登ります。かなり登ったところで、急に開けた場所に出ました。ここが本日の最高点でもあり、中央高地越えの最高点でもある標高1019mのところです。景色はあまりよくなく、普通の山道で、周りに畑があるだけで何の変哲もない所でした。
ここから下りになり、7㎞ほどで、Murat-sur-Vebreの村に着きました。宿は村の出口付近にあり、建物に着いても誰もいません。電話番号が書いてあり、電話すると隣の教会にいるから、しばらく待てと言います。待つこと約25分、やっと宿の人に会えました。こんなに待たせるのはけしからんと思いました。さらに奇妙なことは、食事は旅行社から聞いていなかったので、ありませんと言われて、どうしようかと困っていたのですが、もう一人巡礼が来たので食事を作りますと手のひらを返したような応対で、気持ちのよくない所でした。この村は、標高840mぐらいの高地にあり、眠れるか心配しましたが、大丈夫でした。
6/16 Murat sur Vebre-La Salvatat 20.4km 随所にいい景色
今日も20kmを越えますので平地は車に乗り、湖畔の教会から始まる山道は歩きました。教会と湖がきれいに調和していました。湖はLac du Laouzas、教会のある村はVillelongueで標高は794mです。
ここから山越えになりますので、林の中を登ります。教会から、3.5㎞ほど登り続けると本日の最高点954m、Rec del Boseに着いて、ここから下りになります。下り始めるとフランス人の老婦人が追い抜いていきました。最高点から1㎞ほどで小さな湖があり、ピクニックベンチがありましたので、ランチにしました。小さな湖の200mほど先に民宿があり、こんな山奥に民宿があるので驚きました。ほどなく昨日会った男性二人組に追いつかれ、私の写真を撮ってくれました。その数百メートル後にフランス人女学生四人組が続いていました。ドイツ人の女性エレナは教会のあるVillelongueの村でキャンプするとのことでした。天気はよくて、午後になるとカンカン照りになりました。目的地の村La Salvatat sur Agotは、Agot川がU字型に流れている内側にあるユニークな村で、私を追い抜いて行った7人は多分この村に泊まっていると思いました。教会を見つけて入りました。収容人員150人ぐらいのサイズで、中はシンプルでした。その他一応村の見学はしましたが、宿は1㎞ほど先にあるので、宿へ急ぎました。宿の女将はオランダ人で、豪快な性格だとお見受けしました。
(Villelongue村の教会からLac du Laouzasの湖を望む)
6/17 La Salvatat–Angles 18.0km 中央高地を振り返る
今日はAnglesに着きます。中央高地の最高地点1019mは2日前に過ぎましたが、今日のAngles753mまで2日かかっても270mほどしか下っておりません。ところがAnglesからBoisesson(279m)まで、一日で500m近く下ります。従って、今日が中央高地の山々を振り返る最後のチャンスになります。今日は距離にして18.0㎞と、平地なら十分歩ける距離ですが、今日のコースの特徴は、私の地図ではカミノが車道と交わるところがなく、一旦車に乗るとAnglesまで行く必要があることです。思い余って女将に相談しましたら、女将もAnglesに行くので、途中で落としてあげるとの願ってもないOfferがあり、お願いしました。
さすがに彼女はカミノがどこを通っているかについて詳しく、途中のLas Crouzettesに水場と避難小屋があるので、そこで降りるのがいいとのことでした。私の地図ではこちら側からそこに行く道はないのです。そこで降ろしてもらい、783m地点まで戻って道の状態を調べました。そこからAnglesまで、約7㎞ありました。途中で、いままで歩いてきた中央高地の山々を見返すことができ、とてもよかったです。
(Anglesまで4㎞の丘より、来し方を望む)
Angles到着前に、今まで顔なじみになった男性2人にもう二人加わった4人の男性に抜かれ、フランス人女学生4人には少したってから抜かれました。でも、Anglesのバルでは8人が集まってランチをしていて、当然私もJoinしました。面白いことを発見しました。この若い女学生方は、フランス人なのですが勿論英語もできます。私と英語で話すときには、当然ですが、声は口から出ています。ところが、友人たちとフランス語で話すときには、声は鼻から出ているのです。私にとっては新しい発見でした。今晩の宿主は、合気道の先生で、ニースからきた70歳の方でした。娘さんに二人目の孫ができるので、一人目の孫を預かっており、この一人目の孫の名前はLogan、奇しくも私の4歳の孫と同じ名前でした。
6/18 Angles 休養日
この日は、日本の大学時代の友人たちと、定例のZoom Meetingで2時間ほどおしゃべりをしました。勿論、私のカミノの進捗状況は話しました。久しぶりに日本語をしゃべりました。皆さん日本では午後4時なのに、私の時間に合わせてくれました。学生の頃に戻っていろいろな議論をし、我々の頃の時代背景が異なっていることなどの認識を新たにしました。私が申しあげたのは、日本の経済が成長しないのは、企業家にやる気がなくなって、守ることしか考えていないからだ、いくら金利を下げても、投資につながらず成長しない、政府の問題だけではなく、企業家自身が考えねばならないことがある、などと申し上げました。その後は、昨日のブログを書いて、昼食に昨日のBarに行ったら、一時半なのに今日は終わりといいます。なるほど誰も客はおりません。頼み込んでPizzaを作ってもらいました。
宿に帰って、写真をメモリーに入れる作業にかかり、それまでに撮った写真をSDカードから外付けメモリーに移し替えました。私は長距離を歩くので、100日のうち休養日を15日設けています。休養日は、勿論休養に加え、溜まった事をキャッチアップできるので、大変有効なのですが、一つだけ短所があります。それは、せっかく一緒に歩いてきた人たちに、丸一日遅れてしまうことです。
6/19 Angles–Boisesson 20.3km 下り道
今日は20㎞超ですが、乗り物に適した道がないので、宿から宿まで歩きます。温度は昨日より少し低くなりました。
(標高600m付近から麓の平野を見渡す)
九時前に出発し、道は登ったり下ったりしながら下って行きました。Bouissetに着いて、3人のハイカーに会いましたが、彼らはLodeveに向かっていると言いました。すなわち東向きに、我々とは反対方向に進んでいます。反対方向でもGR-653の標識は同じですから、標識が東向きなのか西向きなのかを判断せねばならないという問題がでてきました。Aangles の標高は753mで19㎞の間でゆるゆると300mぐらい下ってきました。ところがFontageという472mの集落から急に1㎞の間に200m、勾配20%という急坂になり、標高279mのBoisesson の村に着きました。4:30の到着でした。女将が夕食を作ってくれました。ほかにもう一人、French Canadianの女性が泊まっていて、私と女将の通訳をしてくれました。夕食時、ハープ(楽器)と楽譜があるので、女将に聞いてみたら、彼女はなんとクラシック合唱を歌うそうで、こんな山奥にも同好の士がいることに驚きました。Bach、 Handel、 Haydn、 Vivaldi、 Fuare、 Pulanc、 Beethoven、 Brahms、 Brucknerなどについて、二人で片っ端から棚卸をして楽しみました。私が5/9にカーネギーホールでメンデルソンのエリアを歌ってきたところだと写真を見せたら驚いて、いたく感心していました。
6/20 Boisesson–Castres 16.1km 平地に降りる
今日の目的地、Castresの標高は180m、一方Boissezonのそれは279mですから、100mだけ下ればいいということなのです。しかし、カミノは何度も登ったり降りたりしました。さて、今日も宿から宿まで歩きます。Boissezonの村の出口は、がけ崩れがあったので通行止めになっていて、回り道を通る様になっていました。村を出る前に、山の上にある教会に敬意を表しに登りました。かなりの急登で、教会は勿論閉まっていましたが、マリア像がやさしく微笑んでくださいました。これに30分余分にかかりました。それから道標の通り回り道をして村を出ました。それ以降は標高200m前後のほぼ水平の道を行きました。Le Casterletで同じ看板を一時間後に再度見ました。おかしいなと思って考えてみると、知らないうちに東行きの道に入ってしまっていたのです。これで、一時間ほど損をしました。10㎞ほど歩いた地点で道路回りの木々は無くなり、Castresの平野を見下ろすとても見晴らしのいい道となりましたので、展望を楽しみながら歩きました。さらに下ってCastresの町に入ると、カンカン照りでとても暑くなり、市街地を4㎞も歩きました。(実際、8㎞に感じました。)町の中心部にある二つ星の宿には5:00に着きました。川に沿っていてレストランも近く、とてもいいホテルでした。この町は人口約4万人で、鉄道、バスなどが通じていて、巡礼をここで終わる人、ここから始める人などがいます。イタリアンレストランに行き、料理はイタリアンかフレンチかどちらだろうと思っていましたら、やっぱりフレンチでした。
(L’Agout川に沿ったCastresの街並み。この川の上流は、今まで歩いてきた中央山地の山々で、下流はTarn川、ガロンヌ川を経てボルドー近郊で大西洋に注ぐ。)
第3章 Castres-Toulouse 6/21-6/28
ガロンヌ川流域を歩く
これまでMontpellierから二週間かけて越えてきた中央高地は、Castresで終わります。これから西のToulouseにかけて、Garronne川の支流、Tarn川にそって、緩やかに下って行きます。Avignonet-Lauragaisでミディ運河に出会い、Toulouse近郊では運河に沿って歩きますが、運河ができるほど高低差が少ないと言えます。Toulouse を起点とするミディ運河は大西洋と地中海を結んでおり、文化遺産として1996年に世界遺産に登録されています。17世紀の完成当時は、動力を持たない船舶を人や馬が引くために運河の両側につけられた道には、日差しを遮るために45,000本ものプラタナスや糸杉が植えられており、心地よい水辺の散歩道となっています。これからピレネーまで、肥沃な平地が続きます。IGN10万分の1の地図では169を終わって168に入ります。
6/21 Casstres–Dourgne 22.0km 並木道
Montpellierで調達したCamelback はそれしかなかったので1.0Lのものを買いましたが、Boisessonで会ったカナダ人は、2.0Lのものを持っていました。Decathron、Montrealで買ったそうです。Innkeeperのおばさんは、CastersにもDecathronはあるけど、歩くのは遠いと言っていました。スポーツ用品店は街中では商売にならず、郊外で大型化しているそうです。ということなので、タクシーでDecathronに行き、2Lを手に入れました。カミノには、Viviers les Montagnesで合流。Castresから11km、今日の目的地Dougneから11kmの所です。天候は曇り。そこでサンドイッチを買いました。小高い所に望楼のようなものが見えるので登ってみると、市役所と教会に望楼がありました。村を出る道路にそって、きれいな並木道があります。隣町までは、野中の村と村を結んでいる幅員5mぐらいの道を行きます。テントを持った一人の若い女性の巡礼に、素晴らしいスピードで追いつかれ、追い抜かれました。途中に高い塔のあるEglise Saint Jeanという教会があったので、立ち寄りました。路傍で座って昼食をとったBartoresという町にも美しい並木道があり、そこから3kmほどで目的地の村に着きました。宿にはレストランがあり、そこで食べました。夜にはかなり強い雨になりました。
6/22 Dourgne–Revel 17.4km 犬の散歩
雨は暗いうちに止んでいて、日が差し始めた村の中を標識通りに進みました。町を出る道にはきれいな並木がありました。今まで歩いていた麦畑のあぜ道が突然途切れてしまい、麦畑の中を歩く箇所が一か所ありました。そこでゴールデン・リトリーバーと鉢合わせしました。すぐ後ろから飼い主の女性が現れ、少し話をしました。たぶんフランス人でしょうが、彼女の英語は殆ど訛りがありませんでした。自動車道を行けば近道なのですが、標識通り野中の道を行きました。その代わりSorenzeの村によると遠回りになるので、村には寄らないで近道をしました。段々市街化してきて、Revelの村に着きました。ここは人口一万人の村で、結構都会的です。宿は開いていなくて、電話番号が書いてあります。電話をすると、5時まで開けないので、待てと言います。一体、どこで待てばいいのかなどと押し問答し、とにかく開けてもらいました。宿の食堂で夕食を食べました。
(鉢合わせしたゴールデン・リトリーバート飼い主の女性)
6/23 Revel–Les Casses 18.0km 疎水に沿って
観光案内所はかなりユニークなつくりで、ここでスタンプをもらいました。珍しく教会が開いていたので、しばらく座りました。L’Eglise Notre-Dame-des-Graces.かなり大きな教会です。村はずれに並木に沿った疎水があり、これから2日間、この疎水に沿って歩きます。15㎞ほど歩いて疎水を離れ、又1㎞歩いてLes Cassesの村からSaint FelixLauragaisのホテルに電話して迎えに来てもらいました。従業員のしつけのいい、しかも食事のおいしい大変気持ちのいいホテルでした。
(疎水、正式名はLa Rigore de la Plaine)
6/24 Les Casses-Avignonet-Lauragais 19.8km ミディ運河に出会う
朝からひどい豪雨で、とても歩けないと判断しました。延泊出来ればいいのですが、サンティアゴまでの宿が全部予約されているので、雨が降っても槍が降っても次の宿まで行かねばなりません。事情を知っている宿の人は親切で、次の宿泊地まで車で送りますというので、甘えました。次の宿はミディ運河の休息所みたいな役目のある運河沿いのコンプレックスでした。午後遅くになってやっと雨が上がったので、ミディ運河に沿って歩き、昨日歩いた疎水との合流点から疎水を遡ってLe pont dela Rigole まで行きました。ここにも、とてもきれいな並木道がありました。帰りは疎水から運河の合流点まで帰って、運河に沿った別の道を帰りました。歩行距離は10㎞ぐらいになります。
(Midi 運河)
6/25 Avignonet-Lauragais-Villefranca de Lauragais 14.1km 古い村
今日は宿から宿まで歩きます。出発時に振り返ったら、Port Lauragaisという看板がありましたが、この方が、ミディ運河の駅であることを正しく表していると思います。Avignonetの教会の塔が遠くからでもよく見えました。 汽車の駅を過ぎ、教会のある高台の方に登ります。Les Rampertという防壁があり、古い村なんだなあと思わせます。教会は塔が高く立派ですが閉まっていました。村を北に抜けて2kmほど行っても、まだ塔が見えていました。野中の道をどんどん行くと、Villefrancaの村が近くなって並木道の中を行き、次の宿に着きました。
(Avignonetの教会の塔が遠くからでもよく見えた)
6/26 Villefranca de Lauragais-Montigiscard 21.2km イギリス人
20kmを超えるので、汽車に一駅乗るつもりでした。ところが時刻を調べると、日曜日は10時過ぎが一番列車なのでお話になりません。仕方なくタクシーでVillenouvelleまで行き、歩き出しました。空は曇りで時々霧雨が降ります。ヒマワリはほぼ満開ですが、晴れていないのが残念です。Eglise Saint Colombeを通過。Baziegeの村を抜けるとほどなくミディ運河に会い、土手の道を行きます。とても美しい景色です。宿に着くと、宿の女将は全然英語を話さない人で、iPhoneのGoogle translateに頼っています。ここからToulouseまで何キロあるのかという質問には答えません。知らないのでしょう。食事は近所のレストランでせよというので、出かけました。村はずれの標識までいきましたが、レストランなどありません。諦めて村の方に戻ると、二人ほどこちらに向かってきます。その人たちはレストランを知っていて、今予約したところだというので、連れて行ってもらいました。村はずれをさらに行ったところでした。二人と思ったが後から二人きて、UKから来た2カップルと判明。Midi運河をクルーズしているという優雅なご趣味の人たちでした。彼らは私の年齢に驚き、職歴に驚き、今回の1600㎞のカミノに驚き、私の話にとても興味を示しました。最後には、割り勘もさせてくれず、彼らがご馳走してくれた上に、宿所まで車を呼んで送ってくれました。
6/27 Montigiscard-Toulouse 25.8km 土砂降り
朝から土砂降りなのです。今日は運河沿いに26kmを歩くという悲壮な覚悟を決めていたので、ポンチョを着て出かけました。明日は休養日だから、今日は少々着くのが遅くなっても何とかなるだろうと楽観もしていました。しかし、この豪雨です。最初の横断橋Pont de Donnevilleを過ぎるころには、土砂降り以上の滝のような雨になっていました。どこでもいいから雨宿りできるところを探しましたが、運河、土手の上の道、並木これら以外何もありません。出発から二時間ぐらい雨中で8kmを歩いていましたが、ポンチョが役に立たなくなるほどに雨が激しくなり、ホントに困っていたところ、やっとVic水門が見え、ここにはBarがあると聞いていました。
ところが、今日は月曜日。フランスの月曜日は旅人にとっては鬼門です。食事のできるところはみんな閉まります。水門もBarもありましたが、水門開閉の係員がいるだけで、Barは閉まっていました。でも、Barのパラソルで雨宿りができるので、少しは助かりました。30分位大雨のなかで震えていましたが、そのうちBarのオーナーが店の様子を見に来たようです。今日は月曜なので店は閉まっていると言いましたが、中に入れてくれました。注文した熱い紅茶をいれてくれたので、ホットしました。ついでに済まないがタクシー呼んでくれと頼むと、電話してくれました。 Toulouseまで45ユーロと言っているが、いいかときくので、高いとは思いましたが、いいと言いました。しかし、30分ほど待てど暮らせど来ません。もう一度電話してもらうと、この豪雨でタクシーが事故にあい、いけないと言いました。オーナーは35ユーロだったら、ワタシが送っていくというので、是非、と頼みました。雨のなか、約30分でホテルに着きました。このオーナーは以前はレストランをやっていたことがあって、ホテル周辺のレストランをよく知っていました。40ユーロ払いました。とにかく、ずぶぬれになって冷えて氷の衣を着ている状態でホテルに駆け込みましたので、取るものもとりあえずシャワーをあびました。
シャワーと洗濯が終わってから、教会、Catherdal of St. Serninへ行きました。ここには巡礼専用のデスクがあり、名前と国を記録しています。スタンプをもらって帰りました。
(Catherdal of St. Sernin)
6/28 Toulouse 休養日 レンズ カルカッソンヌ
休養日なんですが、カメラのレンズがおかしいのです。カメラはNikon D5500、レンズはTamron18-270 のいずれも最軽量、両方合わせても900gというモノで、来る前に一度落としてしまったのですが、その後ちゃんと動いていました。ところが、2日前から上辺に黒いものがランダムに映るのです。これでは後2か月は撮れないと思いました。ホテルで調べてもらったら、カメラ屋は3件あるというので、これらを回りました。でも、いずれの店もTamronを聞いたことはあるが見たことがない。Nikonのレンズならあるのですが、重い。結局Nikon 16-85mm Usedを295ユーロで買いました。それしかないので、仕方ありません。
午後は、汽車でカルカッソンヌへ行って、有名なお城を見学してきました。知人のO氏から是非行ってこいと勧められていたものです。
(カルカソンヌの城塞)
第4章 Toulouse–Auch 6/29-7/4 懐かしい道
Toulouseの標高は140m、Auchのそれは144m。 この間は100mから300mの間で上下するほぼ平地です。さらにPauでは224mですが、ソンポート峠では1636mとなります。つまり、ピレネーまではほぼ平地と言え ます。
Toulouseは人口479千人で、フランスで4番目の町です。また今回通過する町の中では最大です。西隣のColomiers、北隣のBlagnac、 それにToulouseの3つの町にはエアバス社の主力工場があり、A320、A330、A350などが生産されています。
Toulouseの町は、明るくてOpenという感じがします。パリとかマルセイユなどのように、うさん臭さがなく、物貰いも教会で一人見かけただけです。オーシュは、まことにクリーンな感じのする町で、人口は22千人。人々はおとなしい感じがしました。
2013年にToulouseから歩き始め、Auchの先、Marciacの手前で事故に遭い、Auchの病院に一週間入院しておりました。その時の外科医の先生と今回会う予定です。この区間は9年前の思い出が詰まったところです。
6/29 Toulouse-Piblac 19.5km 雪辱
ホテルを出て、Pont Neufに向かいました。Pont Neufは、2013年に歩き始めた橋なので、懐かしい思いがしました。通常、市街地を歩くのは好まないのですが、前回は地図が不完全で道に迷ってしまい、目的地のPiblacに着く前に、日が暮れそうになりました。親切な人が、目的地の一駅前のColomiers駅まで乗せてくれたので、Piblacまで汽車に乗り、事なきを得ました。それで、今回はぜひ歩いてPiblacに行きたかったのです。今回も地図とGPSが異なったルートを示していますが、GPSに従って市街地を行きました。途中で喫茶店のようなものがあり、昼食をとりました。Piblacに入る直前まで、だらだらと市街地が続きます。L’Aussonnelleという川を超えるとPiblacでした。丘の上の教会はまだ開いていたので、スタンプをもらいました。それからが大変でした。宿の住所はPiblacになっているものの、実際にはLa Gaoffeという地区にあり、Piblacより4kmほど西北にあります。行けども行けども着かないし、水は無くなるしで、最初の日、6月1日の再現のような感じがしました。でも、結局着いたのはいい宿でした。
6/30 Piblac-L’Isle Jourdain 26.7㎞ ヒマワリと藤が満開
宿主がアメリカから来た留学生を同じ方角へ送っていくので、便乗させてくれました。その留学生はMaine州から来ているが、人に言う時にはBoston から来たというとのことです。Maine州と言ってもわかる人は少ないし、説明するのも面倒です。その気持ちはよくわかります。私もNYから来たと言います。NJから来たというと、不必要な説明が要りますので。
さて、Leguevinという町で降ろされました。ここまででも大変ありがたいです。今日の予定では26.7kmという長距離を歩く予定ですが、Leguevinからだと10㎞ほど減るので、歩行可能になります。空は曇っていて、風が強く、寒い朝です。昼食のサンドイッチを求めて、5人ぐらいの人に道を聞いてやっと買えました。GR653の標識を探しながら森の中の小径を行きます。やがて見晴らしのいい道に出ました。ヒマワリと藤が満開間近の状態でした。NYで知り合いのBlanchardさんと同姓の表札がありましたので写真を撮って、帰米したら送ろうと思います。宿はL’esle Jourdainの村の広場に面したいい所でした。
7/1 L’Isle Jourdain–Gimont 23.8km 旧道
朝は曇天。ホテルは村の中央広場にあり、サンドイッチを広場の店で調達しました。今日も20㎞を越えるので、最初の7kmをタクシーに乗りました。N-124とカミノが出会うDaugueresで降りて歩き出しました。後ろからきたフランス人男性 (後でJean-Pierreという名前とわかる) に抜かれました。Trail は泥状になっていて、3㎞ほどでMonferranに着くと、天気は晴れてきました。この村は教会の塔が高いのでよく覚えています。南側を西に行く農道にベンチがあるのも覚えています。農道が北転する角でJean-Pierreがランチを食べていたので、私も食べました。勿論、彼は先に食べ終わり、先に出発しました。9年前の記憶が時々蘇ってきます。小さいが美しい教会のあるGiscaroの村を通りすぎ、昔の村と村を繋いでいたであろう旧道を歩きます。カミノにはこんな旧道が多く、昔の人の息遣いまで聞こえるような気がします。高速道路新設によるカミノの変更標識があり、その通りに行くと車道D160にあたり、これを行くとGimontの村に入ります。メインストリートが高台の稜線上にあります。宿は受付と寝る場所が別で、Jean-Pierreも同じところに泊まっていました。
7/2 Gimont–Montegut 22.4km 山上の村に泊まる
今日も距離が20㎞を超えるので、宿主の子息にL’Isle-Arneまで送ってもらいました。村には小さな教会が2つあり、勿論閉まっていました。地図によるとカミノ上にお城があるようなので、カミノを2kmほど東に行きました。その途中で、イギリス人カップル(68)、Cloudというフランス人男性(72)、それにJean Pierre(57)に会いました。お城に着きましたが、館という感じでまだ人が住んでいて、立ち入り禁止となっていました。L’Isle-Arneにもどり、カミノを西に行きます。3㎞ほどでLussan に着き、ここにはレストランがあるのを覚えているので、昼を食べようと思っていましたが、閉まっていました。このあたりからカンカン照りになってきましたが、旧道に入り、周りの木立が陰を作ってくれて、とても歩きやすい道でした。このような旧道が随所にのこっているのは、とてもありがたいと思いました。Bedoutから舗装道路になりましたが、カミノはすぐに外れて野中を行くことになっていました。私は歩きやすい舗装道路を歩きましたが、カミノに戻る地点を見過ごしたため、ちょっと回り道をしてしまいました。目的地は山の上にあり、稜線を2㎞ほど延々と歩きました。宿はGiteで、客はCloud、Jean-Pierre と私の3人で、4人部屋でした。Giteの泊まり方はJean-Pierreが教えてくれました。
7/3 Montegut–Auch 9.5km 意外と時間がかかる
車道を行くと7㎞ですが、カミノは例によって丘に上がったり川に降りたりで我々を疲れさせます。今日は距離が短いので、昼食を買っていなかったのですが、たったの9.5㎞で意外と時間がかかり、Auchに着いたのは2時を回っていました。空腹になっていたので、最初に目についた教会前のバルで食べました。Auchの教会は相変わらず美しく、中に入れてくれてスタンプも貰いました。宿はとてもいいホテルでした。ここで、9年前に手術をしてくれた外科医のRaza先生と会うことになっていて、彼は9時過ぎにホテルに会いに来てくれました。また明日ということで別れました。
7/4 Auch 休養日 嘔吐 外科の先生
今日は休養日ですが、夜中に嘔吐しました。何か悪いものを食べたのかそれとも昼食が遅かったためかわかりませんが、下痢も続きました。このカミノの直前に日本に一時帰国していたMさんに、無理を言って買ってきてもらったビオフェルミンが役に立ちました。それと、胃腸薬のPepto Bismolで、何とか症状はおさまりました。夕方、Raza先生が来るまで何も食べずに水だけで寝ていました。いくらでも寝られます。 Raza先生には、中華料理に連れて行ってもらいました。9年前に食べた店でしたが、サプライズで奥様と長男の息子さんも来てくれていました。中華料理店では、シェフに漢字で「粥」と書いたら、にやりと笑って作ってくれました。先生も奥様も一度NYに来て食事をしたことがあり、またご子息は日本に旅行したことがあって、話は弾みました。
第5章 Auch–Pao 7/5-7/12
ピレネーが見える道
前第4章に同じく、平野歩きが続きます。2013年の事故現場を確認し、Marciacに着いた時には感無量でした。それからは、ピレネーを見ながら、そして写真を撮りながら、ピレネーの玄関口、Pau(ポー)の美しい町に着きました。
7/5 Auch-L’Isle de Noe 23.0km 興味深い村
嘔吐と下痢でかなり体力が弱っているだろうと思い、大事をとって今日はBarranという村まで16.6㎞をタクシーにして、6.4㎞だけ歩くことにしました。Barranという村は、村の周りを壁と掘で囲っている興味深い村でした。
ここから目的地まで車道を行けば5km未満ですが、例によってカミノは丘に登るのです。でもここは大した景色ではありませんでした。宿は9年前に泊まったところで、シャワーは部屋にありますがトイレは共同というおかしな建物でした。9年前も古くて汚なかったのですが、余計にひどくなっていました。オーナーはイギリス人の老女で、今日はイギリスに帰国中でした。ほとんど英語ができない近所のおばさんが代わりに宿守をしていました。彼女によると、Jean-Pierreが2日前にここを通過したそうで、彼からHarryが来るからよろしくと聞いていましたとのことでした。
今日はアルゼンチン人男性(66)も泊まっていて、夕食に同席しました。彼は6/10にアルルを出たとのことで、ここまで私よりも10日早く歩いています。彼もJean-Pierreも、一日30㎞は歩くそうですが、私も9年前はそうでした。
7/6 L’Isle de Noe–Montesquiou 11.2km お城に泊まる
今日は、距離が短いので宿から宿まで歩きます。朝、出かけようとすると、宿守のおばさんが、近所にお城があるので案内するとのことで案内してもらいました。今では、村の所有になっているとのことでしたが、半分は展示場、半分は幼稚園になっていました。曇り空の下、歩き始めました。標識の通り右折しましたが、住人がまっすぐ行けと言います。GPSを見ますと、住人の方が正しいとわかりました。しばらく登って行くと、Cloudが降りてきます。なんでも、娘さんの40歳の誕生日の為に帰宅するのだということでした。Montesquiouは、丘の上の小さな村でした。足の速い男女の巡礼に会いました。ここでランチをして自動車道を歩きました。次の宿が自動車道から入る様になっていたからです。そこはLa Hagetというお城でした。ホテル用に改装してあるのですが、部屋が狭く、机もありませんでした。また、水の出が悪く、困りました。今までお城に泊まる事に憧れていましたが、普通のホテルの方が余程いいと思いました。ホテルのレストランは、週末しか開いていないとの事で、夕食を何とかしてくれと頼みましたら、Pizza を用意してくれました。客は私だけでしたので、芝生にテーブルをセットしてくれて、気持ちよかったです。
7/7 Montesquiou-Marciac 22.9km 9年前の事故現場
距離は長いですが、今日も宿から宿まで歩きます。お城の朝食も芝生の上で頂きました。自動車道D216を行き、Pouyebonからカミノに戻りました。 カミノは山道になり、一旦下ってまた登りました。登り切ったところがSaint Chistaudで、ランチをしました。9年前はここのHostalに泊まりました。昨日会った男女二人の巡礼が追い付いてきて、カミノを行きました。私はカミノを行かずに車道を行き、9年前の事故現場を見たかったのです。Saint Chistaudから約3㎞のところで、おそらくここが事故現場だっただろうという場所に来ました。あの時はピレネーがきれいに見えていましたが、今日は見えません。そこから車道を行き、Laveraetを過ぎて、ついにMarciacに着きました。前回は、ここに着けなかったので、とても感慨深いものがありました。教会に寄ってから、宿に行きました。
7/8 Marciac–Maubourquet 17.8km D943を歩く
朝起きて、車道を歩くかカミノを行くか一瞬迷いましたが、車道の方が近いのでこれに決めました。町から出る自動車道D943には、並木がきれいに植わっています。 少し行くと登りになり、低い峠を越えます。 カンカン照りになってきました。一度川に降りて、もう一度少し高い峠を越えます。峠を下ったLe Chauvinという所で、D943はカミノに会いました。ここからD943は長い直線になり、車はスピードを出すでしょうから、安全の為に遠回りにはなりますが、カミノを歩くことにしました。途中、わかりにくい所もありましたが、川というか疎水に沿って歩く道になりました。こういう道は古くからある道なのです。やがて市街になり、日本に来たことがあるというフランス人の初老の男性に会いました。日本語は結構達者でした。スーパーマーケット(というか、雑貨屋)があったので、一緒に入って彼は夕食の材料を買い、私は果物を買いました。そこからは市街地を歩いて教会に着き、中に入りましたが、誰もいませんでした。宿は、市役所の近くで町の中心地にあった旧家を改造したようなところでした。部屋は大きかったですが、シャワーとトイレは別の場所にありました。夕食はほかの宿泊客と一緒に食べました。イギリス人が多かったです。
7/9 Maubourquet-Arragosse 12.8km ピレネーが見える
今日は早く出ようと思っていましたが、職業写真家だという女性が現れて私の写真を撮り、取材をしたいというので、付き合いました。それから、宿主がクレデンシャルに蝋でカミノスタンプを押すというので、これも親切で言ってくれているのだろうから、ありがたく付き合いました。やっと解放されて、町の中でサンドイッチを買いました。このあたりからピレネーが見えるはずと、気をつけていましたらトウモロコシ畑の彼方に、美しいピレネーが見えました。Lahitteの教会前広場でランチをしていると、若い男性の巡礼がやってきた。彼の名はAndreaで22歳、Vicenza(ベニスの近く)の家から5/20に歩き始めたといいます。今まで1500kmを歩いていて、サンチアゴまであと1000kmほど追加するとのこと。今日はMarciacから出発したというので、私の一日半の行程を半日で歩いていることになりますが、彼は必ずしもカミノを歩くとは限らないそうです。いずれにせよ、素晴らしいスピードです。それからは、暑い盛りの午後を歩きました。宿は自宅を改造した民宿で、新しくとても綺麗でした。女将は上品な人で、英語は喋らないが理解できているし、私にはゆっくりとフランス語で話しかけるので、理解はできました。夕食後ピレネーの写真を撮りに近所に出かけました。
7/10 Arragosse-Morlaas 25.8km キャンピングカー
26kmはとても歩けないので、10km先のAnoyeまで、タクシーを頼んだのですが、こんな辺鄙なところまでタクシーは来ないそうです。宿のご主人が15ユーロで行くというので頼みました。途中ピレネーが見える所、2ヶ所で止まってもらって写真を撮りました。Anoyeから歩き出すと、カミノは高原状の高台まで登り、その上を行くようになっていました。ヒマワリはほぼ満開でした。Sarabertという所でランチをして、Marthouという所で自動車道D7に出会ってからは、車道を歩きました。何百台ものキャンピングカーに追い越されましたが、その中には、私を元気づけるために警笛を鳴らして、手を振ってくれる車もありました。宿には4時ごろに着きましたが、食事は外でしてくれと言われました。外の知らないところで一人で食べるのは困るので、何でもいいから作ってくれと言ったら、作ってくれたのはやっぱりPizza でした。
7/11 Morlaas-Pau 14.4km 美しい町
朝から強い日差し。 サンドイッチの仕入れなどで出発は10時になりました。カミノはPau(ポー)を通らないので無視されていますが、だから私の方もPauに関する限り、カミノは無視しました。Google Mapsで歩行用の道を提供してもらい、その通りに行きました。9マイル14.4kmになります。途中、ピレネーがよく見える場所が何か所かあり、写真を撮りながら歩きました。盛業中の食堂の前を通りかかったので、ランチをしました。Pau市内へ入ると道は整備されていて、散歩用、サイクリング用に気持ちのいい道が作られていました。炎天のなか、4時過ぎにホテルに着きました。
ピレネーの見晴台に行きましたが、ピレネー自体は、前山に隠れている部分が多く、上半分ぐらいしか見えないのでがっかりでした。でも、ここがピレネーの玄関口なのです。夕食は久しぶりにレストランで食べました。
7/12 Pau 休養日
前の7月4日の休養日は、Auchで嘔吐のために寝込んでいたので、Toulouse以来15日ぶりの休養日です。朝ピレネー展望台に行きましたが、かなりかすんでいました。広場でなんか儀式のようなものをやっていて、警官が警戒しています。Heating Padを探して、3軒目で見つかりました。水を買いました。半そでシャツと半ズボンも買い足しました。Tourist officeでピレネーの案内をしてもらいましたが、地図についてはFanacという本屋で買うのがいいですと言われました。夕方、スーパーでサンドイッチとかチーズ、ワイン、ケーキなどを買いこみ、今日の夕食はホテルの部屋で食べました。そのほうが気楽だし、料理を残さなくて済みます。
第6章 Pao-Candanchu 7/13-7/19
待望のピレネー越え
いよいよピレネー越えにかかります。Pauの標高は224mですが、ピレネーを横断するソンポート峠の頂上は1636mで、標高差1412mです。 このうち最後の2日で1169mを登りますので、それ以前の4日間はそれまでの平地歩きとそんなに変わらないと言えます。
私は、かねてより、ピレネー越えの鉄道に大変興味を持っています。日本語ウイキペディアによれば、「1915年にはソンポート峠にソンポート鉄道トンネルが掘られ、1928年にはスペインのカンフランクとフランスのポーを結ぶポー/カンフランク鉄道が開通した。貨物列車による事故が起こったため、この鉄道路線は1970年3月27日に運行を休止している。」とあり、つい最近、50年ほど前までは鉄道が通じていたのです。また、Guradian紙7/19/2021によれば、「フランスとスペインは、二国を繋ぐ7.8㎞のソンポート・トンネルの再開に向けて作業をすることに2020年に合意した。EUの支持を得てカンフランク・ラインと駅は2026年までに全面的に操業を開始すると希望されている。」 とあり、今後の進捗がとても楽しみです。
今回の巡礼では、Oloron Sainte MarieからLurbe-St.Christaudまでフランスの鉄道に乗りました。この線はBorceまで走っております。それ以南はスペインのCanfranc駅まで使われていないようですが、その線路跡を追跡し、写真を撮りながら歩きました。
峠に向かって登る途中、偶然日本人女性、Borce近郊在住の中邑みほさんにお会いました。スペイン側の現在の鉄道終点であるCanfranc駅が改修され、ホテルも新設されるというセレモニーがあり、この日本人女性のご主人(フランス人)が、その開所式のセレモニーで歌うことになっていたそうです。(私は2日違いで出席はできませんでしたが。) www.timeout.com8/3/21によれば、「駅は改修されて、著名ホテルチェーンにより、104部屋の高級ホテル、200席の会議センター、鉄道博物館、サンチアゴ巡礼の為の簡易宿などが計画されている。」のことです。
7/13 Pau-Laccomande 19.6km 民宿
昨日は、買い物などで市内の道をいやというほど歩いたので、今日は郊外のカミノが通っているArtiguelouveという村までタクシーのお世話になりました。村の教会の前でオランダからのバイカー(サイクリングの人)に会いました。彼は出発直前にコロナにかかり、予定を変更せねばならなかったそうです。10時ごろカミノを歩き出しました。山道にかかり、ピレネーがよく見える所もありました。四時間ほど山の中を歩いて、Laccomandeという村に着き、そこから今晩の宿に電話して迎えに来てもらいました。宿はMoneinという村にある民宿で、カミノから4㎞ほど離れているのです。宿からピレネーは見えましたが、ちょっと遠い感じでした。次の日はフランスの建国記念日なので、親族とか近所の人たちが集まって、夜遅くまで語り合っていました。
7/14 Laccomande-Oloron Sainte Marie 19.0km 2つの川が流れる町
朝早く、宿の庭から壊れたTamronの望遠レンズでピレネーを撮りました。時々黒い影が入りますが、仕方ありません。宿はカミノから外れているので、カミノまで送ってもらいました。昨日ピックアップしてもらったLaccomandeから少し先のEstialescqという村で降ろしてもらいました。教会があったのでしばらく座っていました。2㎞ほど西へいくと、カミノに会いました。このあたりからも、ピレネーが見えました。例によってカミノは畑の畔とか森の中をグネグネと曲がって降りていき、小川を超えてはまた登ります。開けたところにでると、そこはGoesでした。とても暑くなっていましたが、そこからは車道わきの歩道を進んで、Oloronに着きました。この町は、二つの川が町中を流れているので、起伏が激しくなっています。
着いた宿は鉄道の駅前でした。これなら翌日は距離平衡の為に汽車に乗ったらいいと思い、乗車券を買いました。また、観光案内所でスタンプをもらいました。宿の人によると、今日は建国記念日なので、食堂は閉まっているとの事だったので、Calfourスーパーマーケットで食べたいものを買い、部屋で食べました。夜中に爆発音で目が覚めました。夜の11時でした。建国記念日の花火だと気が付きました。
7/15 Oloron Sainte Marie-Sarrance 21.0km 再会
7:51発の汽車に乗るために早起きしました。汽車は、終点のBedous行きでしたが、いつの日か汽車で峠を越えて、スペインに入れる日が来たらいいなあと思いました。川( Gave d’Aspe)に沿って12㎞ほど走ったDe Lurbe-Ste. Chiristauで降りました。駅から一キロほど歩くと、カミノに合流し、道標がでてきました。村の道に、ピレネー犬(グレート・ピレニーズ)ではないかと思われる大型犬がいました。道標に沿って村を抜けると、野中の道になります。しばらく行くと、後ろからくる人たちがいて、振り返ると、一ケ月ほど前に会ったオランダ人のカップルです。再会を喜び合いました。彼らは早く歩くので、間もなく見えなくなりました。
ウナギの寝床のように街道に沿って細長くのびるEscotの村を抜けると、汽車の線路がきれいなアーチ型の橋で川を超えています。ここからカミノは川沿いの山道に入ります。川沿いの急斜面(傾斜45-60度)を川面から50-100mの高度をトラバースしながら遡行する道なんですが、道幅は50㎝以下、しかも時々高巻の為に道幅が30㎝しかない急登急降も何度かあり、あまり安全とは言えないなあと思いました。勇敢な女性に出会い、私と逆方向に歩いていきました。しばらくすると、もう一人勇敢な女性に会いました。お二人とも、かなりの山歩きの経験がおありだと思いました。到着地のSarrance もウナギの寝床のような村でしたが、宿はいい宿で、食堂が併設されていました。
7/16 Sarrance-Accous 12.5km こんなところに
小さなSarranceの村を一巡してから出発。しばらく自動車道N134を行き、カミノの道と交わったところでカミノの道を歩く予定でした。もうすぐカミノの道に入るというその時、追い抜いて行った車が突然Uターン、車から黒髪の女性が現れ丁寧にお辞儀、「こんにちは。」と正しい日本語の発音であいさつされました。えー?こんなところに日本人が!?と驚きました。とにかくNY出発以来48日間日本人には会っていないので、もうびっくり!それと、あと100mほどでカミノの道に入る予定だったので、もしカミノの道に入っていたら、彼女には私は見つけられていないのです。
何たる偶然!第一のミラクル」
とりあえず、お名前、「みほ」さんとお聞きして、今晩の宿、AccousのPermayouに来ていただくことにしました。
今日のカミノは昨日ほど悪くはなく、ほどなくフランス国鉄の現在の終点であるBedousに着きました。ランチタイムだったので、レストランの場所を聞いて、いってみましたが見つかりませんでした。教会の前にBarが開いていましたので、そこで持参のサンドイッチを食べました。今晩の宿はカミノから外れているので、宿に直行する道を行きました。カンカン照りで全く陰の無い直線の道でした。宿にはエアコンがありませんでした。
さてその夕方、みほさんが訪ねてこられました。中邑みほさんとおっしゃって、木曽のご出身で30年ぐらい前からこのご近所にお住まい。今夕は別のアポがあってゆっくり話せないので、翌晩にまた次のホテルに来てもらうことにしました。隣のテーブルのカップルが、「私たちはこの先のBorceでBarを開業したので、明日昼食にぜひ寄って欲しい」というので承知しました。
7/17 Accous-Urdos 16.4km フランス最後の一日
ついに、フランス最後の一日になりました。Accousを九時前に出て車道N134を歩き始めました。AccousとUrdosの間は、川の両岸から崖が迫っていて、車道と歩道を分けて敷設するのは難しいと思われます。おそらく氷河によって削られた崖と思われ、垂直に近い壁になっています。
Borceは車道N134から少し登った高台にある小さな村でした。昨晩のホテルで会ったカップルが経営するBarで、おいしいキッシュを頂きました。Bar以外に、菓子、飲み物などの雑貨も置いていて、アルベルゲも始めたと言っていました。この村には唯一のBarみたいで、お客も多く、繁盛していました。
ユルドゥスには4時前に着きました。この谷を遡行しながら、鉄道の跡とか駅舎の跡などを注意深く写真に収めて歩きました。宿の手前に、ユルドゥスの駅舎と操車場跡がありました。Urdos村のVoyageursというホテルは、みほさんの自宅のお隣に住むJean-Pierreさんがオーナー経営者とのことで、これもミラクルです。
このホテルでJean-Pierreさんの手作りの料理で私のフランス最後の夜の壮行会を開いてもらいました。途中で行き会ったオランダ人のMartinもJoinしました。
みほさんも歌がお好きで、7人の女性仲間とコーラスをしておられ、ご主人の二コラさんも10人の仲間とコーラスをしていらっしゃる。第三のミラクル。
みほさんと日本の歌を数曲Duetし、涙がでそうになりました。翌18日には、二コラさんの合唱団のコンサートがスペイン側であるそうです。その後お二人は一週間のバケーションでスペイン国内を旅行の予定なので、もう一日遅ければ、二コラ、みほご夫妻には今晩お会いできませんでした。第四のミラクル。
写真は、左から美穂さんのご主人、二コラさん、私、オランダ人の飛び入りMartin, そして右端がみほさん。撮影はJean-Pierre. 大切な写真となるでしょう。
7/18 Urdos-Candanchu 12.6km ピレネー越え
ついにその日が来ました。ソンポート峠を経てフランスから出る日です。
朝、Jean Pierre(ホテルのオーナーでみほさんの隣人)が、峠に向かう道の一部が工事中で人間の歩くところが無く、危険だから車に乗れと言ってくれました。ありがたくお受けしてMarassaaまで2㎞ばかり乗せてもらい、歩き始めました。
地図の標高974mのところからカミノに入ります。トレイルはよくできていて、10-15度の勾配を保っています。オランダ人のMartinが追いついてきて、一緒にランチをしました。彼は水が足りないというので、新しい500㏄のペットボトルをあげました。私は足が遅いので彼に先に行くように言いました。
高度1300mあたりからは、大きな息をせねばならなくなりました。Urdosから800mばかり登ってついに峠に着きました。周りには美しいピレネー連峰が見えて、とても幸せでした。
Martinは峠で待ってくれていたので、峠のBarでいろいろ飲みました。Martinは、Canfrancで行われるNicola(みほさんのご主人)のコンサートに行くと言って先に出ました。私はそこからCandanchuまで1.5㎞ほど歩いて下りました。Candanchuは、スペインのスキーリゾートで、Hotel Edelwaissは三ツ星、スペインの最初の夜を過ごすには格好のところです。
7/19 Candanchu 休養日
今日は休養日で、朝食のあと、ひと眠りしました。昼食後は洗濯をし、ブログを更新するなど、忙しい日になりました。夕方から雷雨になりました、就寝前、マウスガードが見当たらないことに気が付きました。
第2部
Camino Aragones
アラゴンの道、スペイン
ルイ16世に「ヨーロッパと呼んでいいのはピレネー山脈まで」と言われ、 ナポレオンに「ピレネーを越えるとそこはアフリカだった」と言われたように、ピレネーを超えると、景色は一変します。フランスでは緑が主体だった景観は、峠からは、茶色が主体となります。スペインは、一部を除いて乾燥地帯なのです。勿論、草木が生えているところもあります。計画的に植林をしているところもたまに見かけますが、背が低く雑木といった感じの樹が生えているか、木がなく草しか生えていない土地が多いです。農業も、機械化、自動化されていると思える箇所は非常に少ないです。これでは、人口は47百万人からあまり増えていかないと思われます。
峠を越えたカミノは、旧アラゴン王国の中を通るので、アラゴンの道と呼ばれています。アラゴン王国は、一時はカタルニアと連合して隆盛になり、ナポリ、シシリアを領有するほどになりました。6/26にMontgiscardで夕食をご馳走してくれた英国人の4人グループは、アラゴンの名を聞いたら英国国教会の成り立ちを思い出すと言っていました。英国王ヘンリー8世が、16世紀前半、男子の生まれない王妃キャサリン・オブ・アラゴンを離婚しようと、ローマ教皇に許可を求めますが拒否されます。それならとヘンリー8世は別の教会を作りました。それが今の英国国教会です。
トウルーズからポーまではほぼ西に向かっていたカミノは、ピレネー越えの為に南に方角を変え、ソンポート峠を越えた南麓のJacaからまた西に向きを変え、峠から170kmでフランス人の道に合流します。
私は、ハイカーなので歩く際には地図と磁石を頼りにしています。フランスには、ハイキング用の1/25K、1/50K、それに1/100Kがあり、IGNで簡単に買えるので、今回の計画時に重宝しました。ところがスペインの地図を探したところ、Geo/Estelという発行者の1/150K しか見つからず、あまり役に立ちませんでした。(後日、帰米後に探したら、全世界の地図を扱うUKの会社、mapsworldwode.comがスペインの地図も販売しているのを発見しました。1/50K、1/200Kはありましたが、1/100Kはありませんでした。)
スペインでは地図などは見なくてもいいように、黄色の矢印が随所にあって、これに従って歩けばサンチアゴに着けます。スペインの地図が見つけにくい事と、黄色の矢印を生み出した事は関係あるような気がしています。
アラゴンの道は、第7章です。
第7章 Candanchu-Puenta la Reina 7/20-7/29 荒れたカミノ
アラゴンの道は、同じスペインの中でも、インフラの面でフランス人の道と大きく異なります。特に、前半のJaca-Unduezの間は宿場と宿場の間の距離が長いこと、宿場の中の宿の数が少ない事、コロナによる宿の休業、廃業があった事、宿場と宿場の間には、店とか食堂、水場などは全然ないこと、巡礼の人数が少ないこと、民家の無い所が多い事、カミノのメンテナンスがよくない事が特徴です。 これでは、途中で事故が起こると助けてもらえないリスクがあります。 特に私の場合、加齢により足が遅くなっており、たとえば巡礼が10人いても、9人は私の先を行くので、10人目の私が事故に遭ったとしても、後から来る巡礼はおりません。この区間は事故に遭わないように、特に注意して歩きました。
7/20 Candanchu – Villanua 16.2km 下り道
マウスガードは、ホテルの人が見つけてくれました。掃除の人が、マウスガードとわからずに捨てていたのだと思います。
早朝は晴れていたのですが、出発しようとする9時ごろには濃霧になり、歩くのは危険なので少し待ちました。10時ごろには視界500mぐらいになったので歩き始めましたが、ソンポート峠はまだ霧の中でした。やがて、カミノの黄色の矢印がでてきました。これで、ああ、ここはスペインなんだという思いが沸いてきました。黄色い矢印を辿るのは地図を読んだりGPSを見たりするよりも易しいですが、一旦見失うと再びカミノを見つけるのが難しいという難点があります。スペイン側のトレイルと道標はよく維持管理がされていました。Hospital Santa Christinaには3つ星ホテルと水場があり、スタンプを押してもらいました。この時点では、霧は完全に晴れていました。さらに下ると、崖の上にCasa del Curaという建物が見えます。下って行くと、Canfranc Estation (鉄道駅であり、同時に町の名前) があり、大きくて長い建物がありました。Nicola(みほさんのご主人)が2日前のセレモニーでお歌いになったのは、この駅舎に違いないと思いました。いまでも、ここから南側は鉄道が通っています。
Canfranc Estationという町は、思いのほか大きいという印象でした。ここには鉄道のトンネルの入り口跡があり、出口はフランス側のLes Forges d’Abelで、そこからはループトンネルでUrudos に降りていくようになっているらしいです。今でもハイウェイフランス側N134、スペイン側はN330a)はLes Forges d’AbelとCanfranc Estasionの間がトンネルになっていて、「フランス行きの道はこちら」というサインが何か所か出ていました。カミノはアラゴン川をせき止めているダムのところで川面に降りて木の橋で東岸に渡ります。アラゴン川沿いに下ると、支流からの沢に滝がかかっていて、若い女性が3人水浴びをしていました。写真は撮らないでというのでその通りにしました。西岸に渡り、橋の上で車に乗せていってあげるという人がいましたが、丁重にお断りしました。Canfranc Puebloの村を通り抜けます。思ったより小さな村でした。きれいなローマ橋でまた東岸に渡ります。ここからは、路面に石が多くなり、車道の下の高さが低い箇所を二度ほどくぐりました。いよいよ暑くなってきて、くたびれたと思っていると、Villanuaに着きました。ソンポート峠にあるMonte de la Racaの山はここからでも見えました。
ホテルは食堂を止めたので、町中に食べに行ってくれといいます。食堂の名前を聞いて出かけました。通行人にありかを聞くと、その食堂は今日は休みというので、別の食堂を紹介してもらいました。不親切なホテルだと思いました。アラゴンの道の第一印象はよくありませんでした。
7/21 Villanua – Jaca 14.9km アラゴン王国の城塞
宿は朝食は提供しないので、近所のBarで食べてくれと言うのですが、彼らの近所はどこなのかわからないというと、受付の女性が案内してくれました。カミノを歩き出すと、道標はサンチアゴまで842㎞だとなっています。道は車道を離れて丘に登ると、ピレネーの支稜、La Moletaだろうか、が見えました。カミノはせっかく登った高度を簡単にあきらめて、又車道に戻ります。ここまで村から約5.2㎞、休憩の為に路傍に座ったら、小柄な男性がリンゴ食べないかと声をかけてくれました。いや、持っているからと自分のリンゴを食べました。Jacaまであと10㎞もないので歩いても大したことはないのですが、Jacaに入る市街地を歩くのは気が進まない一方、Jacaの城塞は見たいし、かといって昨日みたいにガツガツ歩く気もしないので、声をかけてくれた男性に、ひょっとしてJacaまで乗せてくれないかと聞くと、二つ返事でOK. 彼のVanに乗せてもらいました。素人が見ても、いい自転車をもっているなあと思いました。英語もまあまあで、バイキング(サイクリング)にはフランスとかイタリアなど、又ほかのヨーロッパの国々にもバイキング(ツーリング)に行くそうです。よくそんな時間があるもんだと思っていたら、彼はアルベルトという名前で、Huesca(Jaca と Zaragozaの中間の町)の警察官だそうなので、なんとなく納得しました。親切にも、ホテルの前で降ろしてくれました。ホテルは2つ星ながら食堂、エアコン、エレベーターがあり、なかなか良い所です。早速城塞を見に行きました。アラゴン王国が始まった11世紀初頭は、ここが首都だったとのことで、大きくはありませんが、五稜郭のような星形の、見事なつくりでした。いつ作られたのかネットで調べましたが、 built at the end of the 16th century in the reign of Philip II としかわかりませんでした。函館の五稜郭は1857年着工ですので、ここの城塞から300年ほど後になります。次にサンペドロ大聖堂The Cathedral of St Peter the Apostle (Spanish: Catedral de San Pedro Apóstol)に行き、スタンプをもらいました.。宿の宿泊手配をしてくれている旅行社から連絡が入り、翌日、翌々日の宿がキャンセルになり、計画のやり直しをしているとのことでした。7/22 のPuenta la Reina de Jaca の宿が廃業したので、もっと先のArresに変更、その翌日は個室のある宿はなく、Arberge(蚕棚ベッドでシャワー、トイレは共同)に泊まることになりそうです。歩く距離が長くなるので、旅行社はタクシーを手配したとの事でした。
7/22 Jaca – Arres 24.9km 予定の変更
計画ではPuenta la Reina de Jacaまで20.6㎞を歩く予定だったのですが、そこの宿が廃業してしまったので、やむなく5㎞ほど先のAressに部屋を見つけたとの事。それで、旅行社としては、Puenta la Reina de Jacaまで車を手配したそうです。その車が来るのは12:30とのことなので、朝食後ひと眠りしました。予定通りに、Puenta la Reina de Jacaに着き、昼食時なのでどこか食堂はないかと運転手に聞くと、Meson de la Reina というレストランに降ろしてくれました。彼の父親が経営しているとのことで、おいしい昼食を頂き、サンドイッチを作ってもらいました。というのは、Jacaからこちら、ハイウェイN240で20.6㎞を走りましたが、道路の周りにほとんど家屋を見ないのです。これからも見ないだろうから、念のため作ってもらいました。それから歩き出しましたが、心配した通り、家屋が全然みあたりません。Aressの登り口まで4㎞ほど歩くと、倉庫のようなものが建っていたものの、人気がありません。Aressは小高い山の上なので坂を登り、宿に着きましたが、誰もおりません。
20分ばかり待っていると、やっと老女が出てきて、部屋に入れてくれました。食事を出してくれたのは有難かったです。ここからは、ピレネーがよく見えましたし、その後に夕日が沈むのを見ることができました。
7/23 Arres – Ruesta 25.5km 荒れた道
地図を見ると、歩く予定の道の周りには、建物や集落などは全然書かれておらず、昨日歩いた道と同様に、人家も水場もない道を24㎞ほど歩くようになってます。炎天下で人家も水場もない、人も車も通らない道を歩くのはかなりリスクがあると思いました。そこでカミノ16㎞相当分をタクシーで回り道をし、カミノと出会ってからの8㎞を歩きました。カミノは人も車も通らない道なので、荒れていて、アスファルト舗装ははがれているし、舗装の無い山道は両側から木や草が道を塞いでいる状態で、要はメンテをしていない道なので、気味が悪い思いがしました。道路にはCV651とか A1601などの道路番号を書いた立て札があるので、管理主体は決まっているのでしょうが、必要なメンテをしていないか、もう廃道になっているのかもしれません。要は、政府など管理者の目が届いていないまたは、メンテ予算が十分でないと見受けられます。このような光景は、フランスでは見かけませんでした。アラゴン川をせき止めて湖のようになっていますが、川に沿って歩いていても、雑木が茂っていて、湖が見える場所は一か所しかありませんでした。スペイン人二人の巡礼に会っただけでした。Ermita de San Juan Bautistaという、元は小さな教会堂であった廃墟を復元した建物があったので、昼食をとりました。その間40分ほどは誰も通りませんでした。それでも、アルベルゲに着くと、7-8人の巡礼はいました。その中に、オランダ人のカップルがいて、ここでやっと名前がわかりました。男性はTon(Anthony)64歳、女性はMarga(Margaret)65歳のご夫妻でした。アルベルゲですから、一部屋に二段ベッドが4つ、シャワーとトイレは共同です。私の部屋には、ほかに人が居ませんでしたのでよかったと思いました。尚、アルベルゲは、11世紀に建てられたと言われるルエスタ城塞の廃墟に隣接していました。
7/24 Ruesta – Undues 11.0km 砂漠に遭遇
アルベルゲ受付のLunaという若い女性はテキパキと仕事をしてくれるので、サンドイッチ頼んでもすぐに作ってくれました。今日は、山を越えてUnduezまで行くのですが、そこにはホテルがないので、タクシーでSanguesaまで行ってホテルに泊まり、明日朝Unduezに戻ってSanguesaまで歩く予定でした。一方、旅行社が手配したタクシーのドライバーRicardoに朝電話すると、2時までにUnduez に来てほしいというので、とにかく急ぎました。距離は11㎞ですので、4時間あれば平地なら不可能ではありません。ところが、アルベルゲ標高553mから528mまで下りて沢を渡り、頂上は865m、そこから5㎞下って標高628mのUnduez に着く必要があります。沢を渡ったところに、古い教会 Ermita de Santiago Apostolがきれいな形で補修されて残されていました。ここからの登り約6㎞に意外と時間がかかり、頂上に着いたのが12:30で、残りの5㎞を一時間半で行けるかどうか危ぶんでいました。しかも、頂上までは疎林で陰はありましたが、下りは西部劇に出てくるような砂漠で、天気はカンカン照りなのです。アタマをかかえていたところへ、なんとトヨタのランドクルーザーが登ってくるではありませんか。ドライバーは若い女性で、Unduezは行くかと聞きましたら、行かないがあなたの為なら途中まで行ってあげるとのありがたい好意でした。ヨガの稽古に行くという若い女性達6-7人がびっしりと座っているのを詰めてもらって座らせてもらいました。2.5㎞ほど乗せてもらって、トヨタはUターンして登っていきました。この時12:50でしたが、Hot Ovenのような砂漠を歩き、1:45にUnduez に着きました。
とにかく冷たいものを飲みたいとBarにはいったら、またTon/Margaの夫妻に会いました。ここからRicardo というドライバーの運転で、ホテル山口に着きました。9年前にカミノのフランス人の道を歩き、パンプローナからタクシーでハビエル城に行く途中、このホテルの前を通ったのを覚えています。このホテルは、2つ星ですがなかなかいいホテルでした。ハビエル(フランシスコ・ザビエル)が日本に伝道に来た時には、主に今の山口県付近で伝道したので、Yamaguchiという名前にしたと書いてありました。今回は、明日歩いてハビエル城に行く予定です。
7/25 Undues – Sanguesa 13.8km フランシスコ・ザビエル
朝、車でUnduezに戻ったら、若いカップルが写真を撮らせてほしいと言ってきました。その理由を聞いたら、私がユニークなので、巡礼仲間で有名人になっているとのことでした。誰が話を流しているのかと聞くと、オランダ人のカップルだといいます。さもありなん、彼らならやりかねません。
Unduez から3組の巡礼がほぼ同時に出発しましたが、ほかの2組はほどなく見えなくなった。いつものことです。2.5㎞ほど行ってカミノを離れてハビエルの方に歩きます。カミノを離れたとたんに、黄色の矢印は無くなって、自分で道を決めなければなりません。唯一の手掛かりは、地図なんですが、これがあまり正確ではないので、途中で会った車とか自転車に道を確認しながら、やっと2015年に来たハビエル城に着きました。お城の前のBarで昼食を食べました。今までの田舎料理でなく、有名観光地だけあって、ここでは都会の料理がでてきました。お城の入り口でスタンプをもらい、中に入って見学をしました。二回目なのですが、ザビエルと思しき人物が、山内公と思しき人物に説教している掛け軸は何度見てもいいと思いました。2018年だったと思いますが、山口県防府に住んでいる中学以来の友人を訪ねました。勿論案内してくれたのは萩城とか松下村塾ですが、山口市のザビエル教会に連れて行ってもらい、超近代的教会堂を見学しました。礼拝中だったので、サンクチュアリーには入りませんでしたが、展示室があり、生誕の場所であるハビエル城の展示もあり、懐かしく思いました。今日のFBにはこう書きました。「1549年(信長15歳、秀吉12歳、家康6歳)日本にやってきて、キリスト教の布教に努めたフランシスコ・ザビエルの生まれたお城です。来日当時大内氏の庇護を受けて、主に山口県で布教したので、この近所にホテルヤマグチがあり、わたしはそこに泊まります。(中略)学生の頃、阪急電車神戸線に乗ると、黒い風呂敷に教科書を包んだ六甲学院の生徒さんが目につきました。今回ザビエルのことで調べていたら、六甲学院もイエズス会が建てたものだと知りました。上智大学、名古屋の南山大学、六甲学院、栄光学院など、イエズス会はしっかり日本に根を下ろしていると思います。それにしても、この時代に日本にやってくるのは、命がけでしたでしょうに。使命感でしょうか。スペインの片田舎に居てそんなことを考えました。(中略)大分県人より投稿があり、「もうー感動!大分にも布教したので、ザビエルという美味しいお菓子が大分にあります」私は答えて、「そう、後の大友宗麟もキリスト教を認めたので、九州北部でも布教が盛んになったようです。それにしても、すぐに食べ物に結び付ける反射神経には脱帽!」
7/26 Sanguesa – Monreal 26.9km 5人で歩く
今日の出発点と帰着点は26㎞離れているので、とても歩けません。車に17㎞乗って、9㎞歩きました。Izcoという村で降りると、Ton/Margaのカップルがやってきました。彼らは別の国道沿いのカミノを歩いたそうで、時々宿を探してバスに乗ったりもしたとのことでした。そこから2㎞は一人で歩きましたが、Abinzanoという村でイタリア人のカップルがいたので話していると、ドイツ人とスペイン人が追い付いてきて5人でわいわい言いながら5㎞ほど一緒に歩きました。私も走るように速足で必死についていきました。この日は、風が強かったですが、一日中、Monrealという山を見ながら歩きました。スペイン人の60歳ぐらいの人は、最後のMonrealの村まで私のペースに合わせてくれて、とても嬉しかったです。Monrealの宿は、Tom/Margaのカップルと同じでした。その日に開いているBarは一軒しかないので、その晩にこの村に泊まる巡礼は皆そこで食べ、記念写真を撮りました。勿論、私が最年長でした。
7/27 Monreal – Tiebas 13.1km ウクライナ人
今日は、出発地から目的地まで歩きます。宿からYamozまでの4.5㎞のカミノは、ほぼ地図の通りでした。ところが、そこから目的地Tiebasまでの8.6㎞は、地図とは全く異なる箇所を通っていました。地図は、国道沿い、水路沿いの平地を行くコースなので、これなら楽だと思っていましたが、カミノは山中に向かい、Monrealの西にある1135mの山のすそを延々とトラバースさせます。道は細く、登ったり下ったりの険しい道でしたが、その代わりパンプローナとその付近の町がよく見えました。
Guerendiainの村を抜けて四時間の険路歩きはTiebasで終わりました。村の入り口に崩れた砦の跡がありました。Tiebasにはアルベルゲしかないので、Mari Carmenというドライバーの車でMonrealまで戻りました。この晩は、村の食堂が閉まっているとかで、宿主は5㎞ほど離れた町のレストランに泊り客を連れて行ってくれました。私のほかに4人いて、5人でテーブルを囲みました。最初下手なスペイン語で話し始めると、英語にしてくれと言います。どこから来たのか聞くと、最も予期しない国、ウクライナから来たとのことです。中の一人は、カミ、マンダラ、タイゾウカイ、コンゴウカイなどについて教えろと言いますが、それなら高野山に行ってくれとお願いしました。印の結び方も知っているようで、私よりもずっと仏教には詳しいようでした。
7/28 Tiebas – Puenta la Reina 18.1km 八角形の教会
MonrealからTiebasまで車で戻ることになっていましたが、もうちょっと先まで行ってくれとMariに頼んで、Tiebasから5㎞ほど先のOlcozで降りました。この村は高台の上にあり、物見の塔がありました。見晴らしはいいのですが、冷たい風が吹きつけてきて寒いので、着れるものは全部着ました。麓に降りると風は無くなったので、脱ぐという作業が要りました。日が高くなり、カンカン照りになってきました。Enerizの村を抜け、八角形の教会堂で知られているEunateに着きました。Church of Saint Mary of Eunate で検索すると、解説が沢山出てきますので、ここでは省略します。教会を見学していると、Ton/Margaご夫妻がお見えになり、管理事務所の芝生でランチを一緒に食べました。彼らはいつものように先に出立します。
そこから2㎞ほどでObanosに着き、フランス人の道と合流しました。Obanosから1.5㎞ほどで、Puente la Reinaに着き、アラゴンの道を終え、これからフランス人の道を歩くことになります。村は夏祭りで、店は閉まっており、宿のレストランもしまっていたので、村に夕食をとりに行きました。夕食後、Puenta la Reinaすなわち「王妃様の橋」に会いに行きました。Arga川にかかる優美な姿は、いつ見てもきれいでした。11世紀にナバーラ王妃(サンチョ3世妃ムニアドナ、またはガルシア3世妃エステファニアともいわれる)が、アルガ川を渡るのに巡礼達が難儀しているのをご覧になって、橋の建設を命じたという伝承が残っています。
7/29 Puenta la Reina 休養日 これよりフランス人の道に
アラゴンの道を歩いた10日間は休養日がありませんでしたので、久しぶりの休養日です。今まで着なかった衣服とガイドブックなどの本をNJに送るために、郵便局に行きました。4㎏でした。それから再度橋を見に行きました。朝日の中で美しい橋を見ることができました。橋でウクライナ人4人に会いました。彼らはここから車でサンティアゴに向かうそうです。教会でTon/Margaに会いましたが、彼らはこの道はここで終えて、ポルトガルに向かうそうです。また、川にいって橋を見ました。Barでランチをして、明日の為に水を買いました。ホテルに帰ると、日本人がチェックインするところでした。聞いてみると、バルセロナに住んでいて、週末ごとにカミノを歩いているそうです。
第3部
Camino Frances
フランス人の道、スペイン
ここからは、カミノのなかで最も人気があり、最も整備が進んでいる道を歩きます。このあたりのフランス人の道は、アルルの道、アラゴンの道に比べると、巡礼の数が一桁多くなる様に思いました。アルルの道、アラゴンの道は、一日10-20人だったと思いますが、フランス人の道になると、一挙に200-300人ぐらい、しかも、サンチアゴに近づくにつれて、その数は右肩上がりになり、最後の100㎞のSarriaからは、一日千人以上が歩いていると私は感じました。
ここ、プエンタ・ラ・レイナには、アラゴンの道以外にも、フランス人の道が合流しますので、フランス側のSan Jean Pied de Portから歩き始めた人、それ以前のフランスのLe Puy, Vesley、Parisなどの諸道から来た人、スペイン国内の最初の宿場である、Roncesvallesから歩き始めた人、また交通の便利なPamplonaから歩き始めた人などが泊まりますので、大きな宿場になっています。ここからは、店も水場も整備されて、巡礼の数も多く、宿場と宿場の距離が短いので、昼食も水も、そんなに神経質になる必要もありません。万が一、宿にたどり着けなかったり、事故に遭っても助けてもらえるという安心感があります。これは、気分的にとても楽でした。
さらに、ここから先は、7年前2015年に歩いた道なので、どこがよくてどこがよくないかをわきまえて歩くことができました。
フランス人の道は、次の4章です。
- 第8章 7/30-8/8 Puenta la Reina-Burgos リオハワインの道
- 第9章 8/9-8/20 Burgos-Leon メセタの道
- 第10章 8/21-9/1 Leon-Sarria レオン山地を越えて
- 第11章 9/2-9/8 Sarria-Santiago de Compostela 娘たちと最後の100㎞
第8章 Puenta la Reina-Burgos 7/30-8/8 リオハワインの道
スペインで一番大きな川はエブロ川です。 北部のカンタブリア山脈に源を発し、途中ピレネーから流れてきた水などを集めて910㎞を流れ地中海に注ぎます。ソンポート峠から歩いてきたアラゴンの道はアラゴン川に沿って下ってきましたが、アラゴン川もエブロ川の支流です。これからArga、Salado、Ega、Odron、Linares の諸川を渡り、Logrogno では本流のEbro川を渡ります。それからNajera ではNajerilleが流れています。すなわち、宿場の多くは川沿いにあり、これら諸川の間は高地になっていて、登りがあり、次の川に降りるには下りがありますので、川の位置を正確に知っておくことは、地形を読む上での重要な手掛かりになります。
スペイン入国以来歩いてきたのは、エブロ川水系の中でした。本章ではエブロ川水系からドウロ川水系に移ります。分水嶺はVillafranca de Montes OcaとSan Juan de Ortegaの間です。また、Viana とLoglono の間で、ナバラ州からリオハ州に入り、そこからSanto Domingo de Carzadaまでは、見渡す限りブドウ畑でした。また、本章後半でリオハ州から、カスティーリャ/レオン州に移ります。カスティーリャ/レオン州に移って最も顕著な現象は、道標が州の手でしっかりと設置されていることです。一つ目は黄色いペンキの矢印に代わって金属製の看板の矢印、二つ目はコンクリート製の短い柱にサンティアゴまでの距離を示したもの、三つ目は、集落の入り口に集落名と地図を描いた看板を設置していることです。いずれも、巡礼にとってはまことに有難いことです。日本でも、行政が巡礼の道をしっかりと整備してくれる日が来ることを切に希望します。
7/30 Puenta la Reina-Estella 21.9km ローマ橋
今日はArga川からEga川までを歩く道程です。昼食用のサンドイッチを売っている店をやっと見つけて購入。Mari Carmenの車でCiraquiまで行き、歩き出しました。前回はこの村のBarはどこも開いていなかったのですが、今日は何軒も開いていました。小高い丘全体に村が出来ていて、教会は頂上にあるのですが、閉まっていました。村を出ると、ローマ橋が崩れた状態ではありましたが、残っていて、それに通ずるローマの道も残っていました。これから先の川にもいくつものローマ橋がかかっていましたので、Cirauqui-Estellaの道はローマ街道だったものと思われます。このあたりのヒマワリは、既に熟していて取り入れをまっているようでした。5kmほど先のRio Saladoを渡る橋も、きれいなローマ橋で、そこからほどなく高台にあるLorcaの村に登ります。Lorcaの村のBarで軽食をとり、ここからPuente rio Iranzuまで4.5㎞でした。ここのRio Iranzuにもきれいなローマ橋があります。Villatuertaの村はずれにベンチがあったので、昼食。ここからはカンカン照りになりました。丘の上にSan Miguelの小さな教会堂があり、カミノからほんの少し離れていましたが、寄ってみました。すごく暑くなってきましたが、4㎞ばかりでEstellaに着きました。Weevil BridgeでRio Egaを渡りますと高台に大きなIglesia -San Miguelという教会があったので寄りました。宿を探さねばと思っていたら、その教会のふもとにありました。とてもいい宿でした。
7/31 Estella-Los Arcos 20.5km ワインの泉
今日のカミノは川と川の間の21.5㎞、Rio Egaに始まり、Rio Odronで終わります。9年前に歩いたので、ワインの泉がある事、後半の13キロは過酷であることは知っていました。Estellaを出て歩くと一時間ほどの距離に人だかりがしていて、そこがIracheのワインの泉でした。本当はたらふく飲みたかったのですが、朝なので数杯に止めておきました。
ここからまた一時間ほどでAzqueta という村に着きました。9年前には途中で日系ブラジル人の後藤さんに会い、Azuquetaでバルに入って出てくると、干してあったポンチョが見当たらず、村に「アズケタ」と思って先に進みました。そのAzquetaをでると、道は登りになりMonjardinの村に着きました。ここのバルは、少し趣が変わっていましたが、昔の記憶が戻ってきました。さて、ここからLos Arcosまでの13㎞は過酷でした。炎天下、陰はなく、まして水場などもありません。ただ白い道が延々と続いているだけでした。途中でドイツ人の母と娘の巡礼に会い、ランチを一緒にしました。彼女たちに遅れまいと先に出ましたが、すぐに抜かれました。しばらく行くと何か声がするのですが、よく聞き取れず、そのまま行きました。GPSをみると、コースから外れています。地形を見ると、沢が近くにあり(涸れ沢でしたが)、これに沿って行くとカミノに合流するとわかりましたので、沢沿いの道を歩きました。カミノとの合流点で母と娘の巡礼が待ってくれていました。声がしたのは、彼女たちが私に道が違うと教えてくれたものとわかったので、厚くお礼を言いました。Los Arcosの町は、夏祭り中なので開いている食堂は少なく、開いていてもメニューは限定されていました。ホテルの食堂で、ドイツ人の女性2名とフランス人の男性二人が、彼らのテーブルによんでくれて、5人で楽しく食事をしました。右手の中指の先が膿んできていました。写真を撮って長女(学生時代は医者志望)に送ると、放っておけば治るとの返事でした。
8/1 Los Arcos-Viana 20.3km 大きな迷子
前回はLogronoまでの27.8kmを歩きましたが、今回は難しいので途中20.3㎞のViana泊まりとしました。途中、Sansolで薬局に寄って、膿んだ指を見せて抗生物質のクリームを買いました。
Sansolの村から80mほど下の川Rio Linaresに降りてローマ橋を渡り、向かいのTorres del Rioの村の中を登ります。村の中に八角形の教会堂があり、Eunateと同じテンプル騎士団が建てたと言われています。残念ながら閉まっていました。この教会前で20歳ぐらいの若者が、果物をぶら下げて歩くのに出会いました。しばらくすると50歳ぐらいの男性に出会いました。
村を出て標高570mの丘を登っていると、この50歳ぐらいの男性が降りてきます。わけを聞くと息子が来ないので探しに戻るとのことでした。丘の頂上付近で石を積んだケルンみたいなものが50基ぐらいある地点で、母と娘が座っていました。わけを聞くと息子が見当たらないので夫が探しに行ったと言います。その息子は20歳ぐらいで果物をぶら下げた子かと聞くとそうだというので、それなら村で会ったと言ったら、たいそう安心した様子でした。30分ぐらい一緒に座っていたら、ご主人から息子が見つかったと携帯で連絡が入り、その15分後には果物をぶら下げた息子と登ってきました。この4人家族も今日はVianaまで行き、私と同じホテルに泊まることが分かり、ホテルまでほぼ一緒に歩きました。ケルン群のすぐそばにNuestra Señora del Poyoという小さな教会堂がありました。ここからViana まではまだ8㎞ほどあり、カンカン照りの荒野を下ります。途中でカフェトラックが開いていました。紅茶を頼むと、30mぐらい離れている発電機を起動し、電子レンジで湯を作っていました。火を使わないで湯を沸かすのです。Rio Cornava という涸れ沢を渡り、もう一山超えたらViana村の教会の塔が見えてきました。一部は自動車道を歩きました。教会の塔が見えてからがまた長かったですが、Viana の村に着きました。宿は三ツ星でしたが、たいそう良い宿でした。
8/2 Viana-Navarette 21.2km 峠越え
連日の暑さでは、半ズボンでも暑く感じるので、ランニング用のパンツを買おうと思いました。人口15万人の大都会、Loglonoなら運動着の店はあるだろうと宿で確かめますと、4軒がショッピングセンターにかたまっていると教えてくれました。それで9㎞先のLoglonoに車で行きました。途中、ナバラ州かリオハ州に入り、Rio Ebroの本流を越えました。ショッピングセンターで車を降りて店を見つけ、二軒目でやっと、それらしきものを手に入れました。帰りはバスで大聖堂に行こうとしましたが、反対方向行きのバスに乗ってしまいました。終点まで行って引き返して、大聖堂の近くで降りました。大聖堂に入ると、ちょうど神父さんが懺悔ブースから出てきたところで、クレデンシャルにスタンプをくれる所を教えてもらいました。
Loglonoは大きな町で、市街地を抜けるのに2時間かかりました。やっと町を出て、Pantano de La Grajeraという池のある公園を抜け、峠の登りにかかります。 峠はAlto Grajeraという543mの標高の丘を越えるのです。Loglognoからは150mぐらい登るだけなのですが、炎天下でこれだけ登るのはかなり辛いものがありました。巡礼路と高速道路A-12が並んで峠を越えます。ここから西を望むと、次の高台にあるNavarreteの村がきれいに見えました。
いったん平野に降りて、またNavarreteの村のある高台に登ります。高速道路のインターの工事中で、埃っぽい中を休み休み登りました。宿は番人が一人いるだけで、食事はレストランで食べてくれと言います。レストランのリオハワインも料理もとてもおいしかったうえに、安かったので、得をした気分になりました。ここで昨日会った四人家族にまた会いました。それから、別のカップルが、レストランのメニューを親切に解説してくれました。
8/3 Navarette-Najera 16.2km ブドウ畑
今日は20㎞以下なので、宿から宿まで歩きます。宿を出るときには雨がしょぼついていましたので、ポンチョを着て出ました。昼食を買ったり、薬局でバンドエイドを買ったり、教会でスタンプをもらったりしていると、出発は10時になり、雨はやんでいました。Loglonoは汽車の便がいいので、巡礼の数がまた増えたように思います。
私の出発時点でまだ50人ぐらいが村の教会前に残っていて、既に出発した巡礼は何百人かいたでしょう。ブドウ畑の中を緩やかな勾配で峠に向かって登ります。あとから来た巡礼には、どんどん抜かされていきます。途中の休憩所で昼食をとり、指の消毒をしました。晴れてきて、猛烈に暑くなってきました。峠には1:20に着きましたが、そんなにいい景色ではありませんでした。西側に下ると見渡す限りのブドウ畑です。イタリアのPaviaから来たという長身のイタリア人巡礼に追い抜かれましたが、彼は今朝Loglonoから出発したそうです。Loglono-Najerraは29㎞ですから、普通の巡礼なら普通に歩ける距離ではありますが。あまりに暑いので、Rio Yaldeの川岸にあるピクニックエリアでしばらく休みました。ここからは平地でNajerraまでは3㎞なのですが、行く手の平原に黒雲が沸いてきました。黒雲の周りに雨が降っているのが見えます。雨に会わないようにと急ぎますが、Najerra の村に入った途端にポツリポツリと、やがてシャーと降ってきましたが、あまり濡れないうちに宿に着きました。この宿は7年前に泊まった宿でした。部屋の液晶テレビがシャープ製だったので、嬉しくなりました。
8/4 Najera 休養日
Puenta la Reina以降初めての休養日です。前回は、世界遺産のYuso、Suso修道院を見学に行きましたが、今回はブログとかメールの返事とかで時間が過ぎてしまいました。昼食も夕食も川端のバルでおいしく頂きました。
8/5 Najera-Santo Domingo de la Calzada 21.3km サントドミンゴの奇跡
ナヘラを出るときには曇っていて寒かったです。6㎞先のAzofraから歩き始めました。Azofraの標高は500m、目的地Santo Domingo のそれは600mですが、間には745mのCiruenaがあり、これを越えていきます。約3時間で8.1㎞の緩い登りを歩き続けると、頂上のCiruenaの村に着きました。この村は最近できた新興住宅地で、ゴルフコースがあります。おかげで、クラブハウスのカフェテリアでおいしいランチを頂きました。それから下りにかかると、いろいろなカミノのPRに使われる、見晴らしのよい景色が眼前に広がります。何枚かの写真を撮りました。
麓のサントドミンゴが見える所で、母親と2人の息子の家族に会いました。Barcelonaの住人で、今回はLoglonoからBurgosまでの区切り打ちとのことでした。夕方、Cathedral の見学に行きました。ここの奇跡については下記の通りです。鐘楼にも登りました。
サントドミンゴの奇跡
ここで奇跡があった。昔々巡礼が命掛けだった頃、ある若者が両親と遠くからサンティアゴ目指して歩いて来た。やっとこさこの街に荷物を降ろして宿を取った。その旅籠の娘が若者に一目惚れ。迫るは言い寄るはあの手この手で若者に「付き合ってくださいッ」。しかし若者は冷たく「無視」して宿を立ち去る準備。悔し紛れに娘は若者の荷物に銀のコップを忍び込ませた。そして「彼は泥棒〜〜」と訴えた。当時の法律では泥棒は絞首刑。若者は捕まり広場で吊るされた。ところが、1ヶ月経っても若者は吊るされたまま生きている。両親はサンティアゴの巡礼を終えて戻ってきてビックリ。そして若者は両親に「どうか判事に私の無実を話して下さい。私は聖ドミンゴ様に守られております。」そして、何とか判事に謁見が許された両親、判事は食事中。チキンの丸焼きを頬張る寸前「フン!そやつが生きているなどど言うのはこのニワトリが生きていると言うのと同じ事ジャ!」すると突然丸焼きチキンが立ち上がりコッコロコッコッコ〜〜(スペイン語だと鳴き声これ)と鳴いて若者は絞首刑台から降ろされ両親と故郷へ帰って行ったとさ。https://tabispain.com/santo-domingo-calzada/
8/6 Santo Domingo de la Calzada-Belorado 22.4km Castilla y Leon州に入る
今日の行程は、Rio Ojaにはじまり、Rio Quintana、 Rio Relachigo、 Villamayor の3本の小さな川をこえ、Rio Tironで目的地のBeloradoに着きます。今日も朝は曇って十数度という低温でした。宿主はトラックに乗せて行ってあげるというので、Redecilla del Caminoまで乗せてもらいました。ここはもうLa Rioja州を出てCastilla y Leonという大きな州に入っています。Redecilla del Caminohaは、5分もあれば通り過ぎてしまうような人口115人の集落です。
歩き出すと30分ほどで次の村、Castildelegatoに着きました。ここで二人のアメリカ人女性に会い、2㎞ほど先のViloria de la Riojaの丘の上まで一緒に歩きました。一人はオレゴン、もう一人はテキサスからでした。二人ともViloria de la Riojaで歩くのをやめ、タクシーでBeloradoまでいくことにした様です。Viloria de la Riojaの丘から下ると、国道N120に沿って西に歩きます。Vilamayorの川を渡って同名の村に入る直前にポーランド人の小柄な女性に会いました。村の水場で昼食をとりました。ここからは晴れて暑くなってきました。再びN120に沿って歩いていますと、追い抜いて行った自転車の男性が急にUターンして、私と一緒に写真を撮らせてくれと言ってきたのには少々驚きました。笠が珍しかったのでしょう。目的地のBelorado は、7年前に来た際には巡礼宿の為にあるような村と思っていましたが、今晩音楽祭をやるとかでちょっと見直しました。
8/7 Belorado-San Juan de Ortega 24.2km 分水嶺の山々
今日の行程は二部に分かれます。第一部はBelorado からMontes de Ocaまで、N120に沿った平野の道で、第二部はEbro川とDouro川の分水嶺の山々を歩く山道です。距離は双方同じくらいです。
7年前の経験からして、第一部は面白くありませんので、車でOcaまで行きました。Ocaからかなり急な山道を登り、20分ほどで平坦な道になりました。泉があって、4-5人が休んでいました。そのうちの一人は、昨日会ったポーランド人でした。南の方に美しい連山が見えました。登り切ったところに、 Munumento a los Caldosという記念碑があり、スペイン内戦時にフランコの党員に約300人が射殺されたことを悼むものでした。
ここから約100m下って川を渡り、また同じだけ登ります。しばらく行くと、韓国人の男性が追い付いてきて、ほぼ水平の道を目的地まで一緒に歩きました。彼は32歳で、教師とのことでした。オルテガの教会も村も、7年前より一段ときれいになっているという印象を受けました。
8/8 San Juan de Ortega-Burgos 26.1km ブルゴス大聖堂
今日はやっとブルゴスに着く日です。ブルゴスでは、前回やり残したことがあります。一つはアタプエルカの原人発掘現場の見学、二つ目はブルゴス大聖堂とお城の見学です。加えて、Loglonoで買ったランニングパンツがイマイチで買いなおさねばならないなど、ブルゴスでの時間をなるべく多く取りたいと思っていました。また、大都会の出入りには、道標も十分ではありません。(1)自動車道N-1を歩く道(2)自動車道N-120にそって歩く道(3)rio Arlanzonの川沿いの道 の3つの異なったアプローチがあり、それらに入る分岐点がよくわからないという難点があります。前回は偶然道を知っている人が通りかかって教えてくれました。最初の10㎞は歩いてもいいと思いましたが、それを歩き終わってうまく車が見つかるだろうかなどと考えると、最初から車でブルゴスの宿まで行くのが手っ取り早いという結論になりました。宿に着くと、幸いにも部屋は開いていました。体が睡眠を欲しているようなので、しばらく横になりました。宿の受付の協力で、アタプエルカの明日の発掘サイト見学予約が取れました。今日は月曜で閉まっていたのです。発掘物が展示されている人類進歩の博物館にいきましたが、月曜なので閉まっていました。ブルゴス大聖堂をつぶさに見学しました。見事な聖堂でした。丘を登って頂上の城塞を見学しました。とても暑くなったので、城塞前のバルで涼をとりました。夜は宿が紹介してくれたレストランに行きました。料理はおいしかったですが、みんな大声で喋るのには閉口しました。
第9章 Burgos-Leon 8/9-8/20 メセタの道
スペイン入国からVillafranca de Montes Ocaまではエブロ川水系の中を歩きましたが、San Juan de Ortegaからドウロ川水系に移りました。BurgosからLeonまでは、Duoro川流域の北部で、カンタブリア山脈の南麓、北メセタと言われる比較的平坦な地域を東から西へと歩きます。これまでと異なり、起伏は少なくなりますが、全体的に標高が高くなります。カミノが通っている地域の標高は700m-900mの高地ですが、スペインの国土の平均標高は660mで、欧州主要国の間ではスイスに次いで平均標高が高い国なのです。 ブドウは600m以下ではよく見かけましたがここでは姿を消し、小麦、ヒマワリ、トウモロコシなどが穏やかに育っていました。
スペインのカミノ上にある人口10万人以上の都市は4都市しかありません、Pamplone、 Loglono、 Burgos、 Leonです。大都市は中央のMadridと 南のBaracelona、 Valencia、 Sevillaなどで、人口も中央から南半分は多く、北半分は少ないと言えます。つまり、カミノはスペインの北辺に近い辺鄙な地方を通っていると言えます。その中で、私は、Leonが一番好きで、その次にBurgosです。
8/9 Burgos 休養日 アタプエルカ原人
午前中にたまった諸事を片付け、午後発掘現場の見学に行きました。前回は、足底筋膜炎を患い、その治療の時間と重なったため行けなかったので、今回に持ち越したものです。
アタプエルカ原人については、下記の記事を参照ください。
スペイン北部にあるアタプエルカは人口150人ほどの小さな村。ブルゴス県から約15km離れた場所にあるアタプエルカは二つの川が重なり、気候も良くたいへんおだやかな土地。歴史に残るアタプエルカは、カスティーリャ王国のフェルナンド1世と実の兄弟であったナバラ王国のガルシア5世との激戦区となった場所でもあります。このアタプエルカの戦いで知られるこの地には広大なカルスト地形のアタプエルカ山脈があり、数多くの洞窟があります。
その洞窟では初期人類の人骨や生活の痕跡が発掘され、2000年「アタプエルカの考古遺跡」として世界遺産に登録されました。見つかったものから驚きの事実が判明し、今もなお発掘は続いています。そんな世界遺産であるアタプエルカの考古遺跡を紹介します。アタプエルカが注目されるようになったのは19世紀の末。アタプエルカで鉄道のトンネル工事の際に遺跡が発見されたのですが、実際に発掘が始まったのは1978年です。そして1984年の発掘調査では150体にも及ぶ大量の人骨が発掘され、1992年には完全な人骨も見つかります。これらは最古のもので120万年前のものと言われ、ヨーロッパで見つかっているものでは一番古い時代の骨。
世界遺産アタプエルカから発掘された人骨を調査したところ、ネアンデルタール人の祖先と考えられているホモ・ハイデルベルゲンシス、さらにホモ・アンテッサー、ホモ・ハイデルベルゲンシスなどの旧人類から青銅器時代の人類などが生活していたことがわかりました。人類考古学で非常に貴重な発見がされたこの世界遺産は、ヨーロッパで最初に到達した人類の遺跡と考えられているんですよ。
現在は発掘現場や洞窟などを見学できます。特に多くの人骨が見つかったシマ・デ・ロス・ウエソスは骨の採掘抗という意味を持ち、観光名所にもなっています。
出典:https://skyticket.jp/guide/103702
8/10 Burgos-Hornillos del Camino 21.0km メセタ台地
ブルゴスのような大都会では、入るのも出るのも市街地の雑踏を我慢せねばなりません。それを避けるために、10㎞先のTardajosまで車に乗りました。そこで昼食とバンドエイドを調達し、10時に歩き出しました。次の村、Rabeの村はずれの小さな祠のような教会を過ぎると、メセタ台地への登りが始まります。 メセタ台地は台形の丘のようなもので、登ってしまえば頂部は平担なのですが、そこまで行くには登りがあり、急坂でなくても登りは登りなのです。Rabeの標高820mから頂上950mまでを5㎞ぐらいの距離で登ります。登りの途中でFuente de Pratorresという泉が木陰に囲まれていて、そこでランチをしました。このメセタは頂上の平坦な部分はあまり長くなくて、すぐに下りにかかり、Hornillosには2時前に着きました。この村は人口70人で、泊っている巡礼の方が多く、この村はカミノの為にある村です。以前に比べると小綺麗になってると思います。夕食時には韓国人の女性とかなり長く話しました。晩にはかなり激しい夕立がありました。
8/11 Hornillos del Camino-Castrojeriz 20.1km 城塞
今日は、メセタ台地第二部です。8:30に歩き出し、Rio Homazuetaが流れるHorinillosの谷からメセタ台地台地に登りました。標高差は100m少しですので、たいした事はありませんが、登りは登りです。このメセタ台地の頂上部分は比較的広く、幅3㎞ぐらいあります。Hornillosから5.7kmで、Rio San Bolが流れる谷に一旦降りますが、又同じ高さまで登ります。二度目のメセタ台地も同じぐらいの距離ですが頂上の平坦部分がちょっと狭いです。ということで、メセタ台地は終わり、12時前にHontanasに着きました。坂を下って村に入る最初のバルはよく覚えています。前回2015年との違いは、今回は人がとても少ないことです。これから先は、自動車道を歩かされるので、この暑いのに自動車道を歩かされるのはたまらないし、宿のあるCastroheriz村の裏山の城塞の廃墟を是非見たかったので、バルのおばさんにタクシーを呼んでもらいました。San Miguelの教会の廃墟では、止まってもらって写真を撮りました。さて、Castroherizの村に着き、水のボトルをもって裏山に登りました。熱したオーブンのようなカンカン照りの中をのぼると、体中から水分が蒸発してしまいそうでした。登り始めてから30分ほどで城塞の廃墟に着きました。州によって見学できるように鉄材で補強してあるのは有難かったです。とてもいい眺めで、興味深い城塞でした。先ほどまで歩いていたカミノも、明朝歩いていくカミノもよく見えました。前回登りたかったのですが時間がなく、今回やっと登ることができました。別の道から村の中心に降りてみました。中心には観光案内所を兼ねた教会があり、彼らの解釈になるカミノのビデオプレゼンテーションを、日本語で見せてもらいました。夕食は、テーブルが15ほどあって100人以上は入れるホテルのダイニングルームで、今日の客はたった5人、ワンテーブルでした。
8/12 Castrojeriz-Boadilla del Camino 19.1km 炎天下の農道をひたすら西へ
今日も暑くなることを想定して、ブルゴスで買ったランニングパンツで9時ごろ出発しました。最初はRio Odrillaに向かって下りましたが、橋を渡るとAlto de Mostelaresにむかって少々きつい登りになります。橋の標高が800mでAlto 頂上が900mですから標高差は大したことはないのですが、8月7日のMontes de Oca以来の勾配だと感じました。登りながら、イタリア人の若者にであいましたし、頂上ではフランス人の女性はじめ20人ぐらいの巡礼たちが休憩していました。笠が珍しいのか、皆さんから一緒に写真を撮りたいとの声がかかります。頂上からの眺めは素晴らしく、来し方を振り返りました。昨晩泊まったカストロへリツは、小高い山の山すそに細長く展開し、その山の頂上付近に城塞があるというのがよくわかりました。こちらのAlto de Mostelaresには東から登ってきて、頂上はメセタ台地のように平坦になっている部分が400mほどあり、西側から降りることになります。西側の平原を望むと、取り入れの終わった麦畑が果てしなく続いています。この降り道もカミノの紹介のPRによく載っているので、通りがかりの巡礼に何枚か撮ってもらいました。
あとは炎天下の農道をひたすら西へ西へと歩きます。Alto から4kmほどでFuente de Piojoという泉があり、ランチをしました。ここからRio Pisuegaまでは1.5kmの間に一丘超えるのですが、アスファルト舗装になったせいか、温度が大変高くなっていました。Puente de Itaro 橋でRio Pisuega をわたり、川沿いの道は、陰が少々ありますので助かりました。このあたり、木は川沿いにしか生えてないのです。橋から2km足らずでItaro de Vegaという村にはいり、バルで冷たいものを飲んだら生き返りました。ここから宿までまだ8.5㎞あり、この炎天下を歩くのはちょっとリスキーだとおもわれたので、バルで車を呼んでもらい、Boadilla del Caminoにある宿には、2:45ごろに着きました。宿は個室が付属しているアルベルゲと見受けました。宿のバルで英語もスペイン語も堪能なメキシコ在住の韓国人男性に会いました。夕食は、大きなダイニングホールで、アルゲルゲの宿泊客も一緒に食べました。多分80人ぐらいはいたと思います。
8/13 Boadilla del Camino-Carrion de los Condes 26.1km カスティーヤ水路
BoadillaからFromistaに行くのは楽しい道です。まずBoadillaを出ると、高い木の並木が続いていてとても美しく、しかも今朝は高曇りで風は涼しいという好条件です。
ほどなく、進入禁止の道標がありましたが、巡礼は禁止の除外となっていて、何か特別扱いされているようで気持ちがよかったです。これは、カミノがカスティーヤ水路沿いにあるからで、一般人は通行不可、巡礼は通行可となっているものです。あとで分かったことですが、農業用水の供給とともに、水上バスみたいなのが水路を走っています。Toulouseのミディ運河を思い出させてくれましたが、あそこには水上バスはありませんでした。フロミスタの水上バス乗り場には、乗客が待っていて、サンチアゴまでいくのか、ご苦労さん、気をつけてと声をかけてくれました。フロミスタは、前のカミノの時に25㎞歩いてカストロヘリツから夕方遅く着いたので、教会を訪れる時間などはありませんでしたが、今回はゆっくりとサンペドロとサントマーティンの二か所を訪れました。教会前のバルでランチをしました。
フロミスタは、入ってくるには美しいのですが、出ていくには、自動車道に並行する、まっすぐな道が、次の宿があるキャリオンまで続きます。こういう道はあまり歓迎しないので、一部Villacazarまで車に乗りました。Villacazarでは、ミサが終わるまで待って、教会を見せてもらい、スタンプをもらいました。キャリオンの宿まで7キロ弱の地点でした。ここからは道路わきのまっすぐな道をひたすら西へ向かいます。あとから来た男性が、なんと昨日Alto de Mostelaresの登りで会ったイタリア人の若者でした。彼の名前はPietroで、キャリオンの村まで足の遅い私に付き合ってくれました。キャリオンの村は、遠くからでも見えるのですが、なかなか着きません。やっと着いたら、教会が沢山ありました。Pietroは、私と同じ宿に泊まるというので、先に行きました。私は教会を2つ回ってゆっくりと村を抜け、Rio Carrionを美しい橋で渡ります。宿は村から1㎞ほど離れておりますが、大きな修道院を改装したSan Zolloという宿で、クロイスターが2つあり、四つ星でした。宿自体が村のようになっていて、食事もいいものが出てきました。MさんとFacebook Liveについて、かなりの時間Discussしました。ここは、電波の状況がよくないので、8/20のLeonまで延期する事にしました。前回、この宿の前を通った時、ここに泊まりたいと思っていたのが実現して、嬉しかったです。
8/14 Carrion de los Condes 休養日 Pietroと朝食
Pietroと朝食をしました。彼はこれから出立して、Terradillosあたりまで行くと言います。ここから27㎞先なので大丈夫かというと、一時間5㎞ぐらい歩けるから、5時間とちょっとだと言います。20歳の若者とは比べ物にならないことを痛感しました。MさんとまたFacebook Liveについて話しました。今日の4時にLiveをやろうときめていたのですが、インターネットのつながり方が悪いので、昨日の話で8/20のLeonにしました。昔の修道院は壁が厚いので、電波が通りにくいのだと思います。Facebook Liveを計画していた4時に、6-7人でGoogle Chatをしました。久しぶりに日本語で話せて、とても楽しいCahtでした。今日は結婚式があって、Dining Roomが閉まっているとのことで、夕食はCoffee Shopでしました。私の方のクロイスターではなく、もう一つのクロイスタ―で遅くまで皆さん騒いでいたようです。
8/15 Carrion de los Condes-Calzadilla de la Cueza 16.3km 真っすぐな道
出発前に、ホテルのクロイスターとかチャペルの写真を撮り、10:10に出発しました。朝は高曇りで涼しいです。カミノは自動車道に沿って、真っすぐに伸びています。こういう道は好きではありません。4.7㎞地点で、自動車道路とは別れましたが、道はまだ真っすぐで、人家は全く見あたりません。4.7㎞地点から4.1㎞でトラックで営業するCafeがあるはずです。確かにトラックはありましたが、閉まっていました。時刻は12:10で、出発からの時間は2時間、距離は9.1km (4.7 + 4.4)で、私にとっては好タイムです。しかし、次の7.2㎞はかなりの困難を伴いました。温度は30度に達し、風が強くなってきたのです。自転車は何台か通り過ぎましたが、巡礼には会いませんでした。宿には、3:30に着きました。前半よりはタイムは悪かったです。宿の近くで、30分のマッサージをしてもらいました。
8/16 Calzadilla de la Cueza-Sahagun 21.7km フランス人の道の中間点
宿のある村、Calzadillaには自動車道が通っていて、次の大きな宿場であるTerrdillosまでは9.1㎞。今日は歩行予定距離が20kmを超えるので、9.1㎞を車に乗りました。来てみると、Terradillosはあまり大きな村ではありませんでした。Calzadillaの人口は51人、Terradillosは61人ですからTerradillosの方が大きいと言えば大きいでしょうが、似たり寄ったりで、どちらも泊まっている巡礼の数の方が多いでしょう。歩き始めましたが、風が冷たく、ウインドブレーカーを着る必要がありました。宿場を出たところで、サンチアゴまで391kmという標識があり、400㎞を切りました。つまり、全体の距離、1600㎞の3/4を歩き終わったということになります。このあたりのカミノは、小さな集落を繋いで通っています。次は3.2㎞先のMoratinosでした。教会に入ると、この村に住むアメリカ人の女性が受付をしていました。出身はPittsburgとのことで、ご主人がEU市民(UK)であるにも拘らず、彼女の移民申請はなかなか認められなかったそうで、官僚的な手続きに憤りを感じていたようです。次の村は2.8㎞先のSan Nicholasで、ここでランチをしました。さらに進むと、Palencia県とLeon 県の境界の高台があり、そこからはSahagun の町がよく見えました。
Sahagun の手前で、フランス人の道の中間点と言われているVirgin del Puenteに立ち寄りました。7年前は写真を撮る人たちで混みあっていたので、シャッターを押してくれる人に事欠きませんでしたが、今日は誰もいなくて、セルフタイマーのお世話になりました。Sahagun の町に入って鉄道を超えると、宿はすぐでした。
8/17 Sahagun-Calzadilla de los Hermanillos 14.5km ローマ街道
Sahagunは、そんなに大きな町でもないですが、人口2,500人と決して小さい町でもありません。町の出口であるCanto橋まで20分かかりました。この橋はきれいなローマ橋で、5つのアーチでRio Ceaを渡っています。ここからは、カミノは自動車道路の脇を行きます。並木のある所もあれば、ない所もあります。Cotoという村で右に曲がるべきだということは知っていました。4kmほど行くと、道端に標識があって、Calzadilla de los Harmallosに行くものは、右折すべしと書いてあります。しかし、どこで右折するのかは書いてありません。イタリアからの巡礼グループとイタリア語で話しながら、Cotoに着くまでは一緒に歩こうと歩いていました。しかし、道標から1km以上も歩いているのに、一向にCotoには着きません。ここで私は、Cotoはこの道の途上ではなく別のところにあるのではないかと思い、標識のところまで1kmほど戻りました。そこで路上をつぶさに観察していると、ついに自動車道に黄色の矢印がタールで黒く塗りつぶされているのを、何か所か発見しました。結果的には、この消された黄色の矢印がCotoに至る道だったのです。つまり、Cotoは分岐点ではなく、右折したあと500m歩くとあったのです。地図を細かく読んでいなかったミスでした。Cotoには正午に着き、バルで紅茶を飲んで休憩しました。5分ほど行くと周りに家がなくなりました。この道はVia Romanaで、道は砂利というか小石というか、こぶし大の半分ぐらいの大きさの石で覆われていて、歩くたびに足がずるりと後ろに滑り、とても歩きにくい道なのです。なるべく、石の少ない箇所を選んで歩きますが、なかなかピッチが上がりません。苦闘する事3時間、周りに何の建物もなく、人にも犬にも会わず、一人だけでひたすら西へと歩きました。考えようによっては、もし事故が起こっても助けはなく、危険でもありました。しかし、はるか2000年の昔に、おそらくローマの軍隊も同じ道を歩いたと思えば、とても元気が出てきました。3時間後には巡礼の泉に着き、そこから1㎞ぐらいでやっと家が見えました。宿は若い夫婦が経営する小奇麗な宿で、有料で洗濯をしてくれて、とても助かりました。宿の人によれば、Ponferradaあたりで掘った何かを、このVia Romanaを通ってローマに運んだそうです。
8/18 Calzadilla de los Hermanillos-Mansilla de Las Mulas 24.4km 古のローマ街道
今の私には、一日24㎞を歩くと翌日歩けなくなります。これを18㎞ぐらいに縮めることができればいいのですが、そんなに都合よくはいきません。というのは、昨日歩いてきた道Via Romanaの延長、Calzada Romana (Roman Road)は砂利道なので、タクシーは走れないようです。だからRoman Road 経由で24㎞歩くか、並行する自動車道路LE6615に一旦移って再びRoman Roadに戻るしかないようです。地図をよく見ていると、宿からLE6620 経由でLE6615に移ることができ、LE6615 でVillamarcoの村まで行くと、近くに鉄道駅があり、鉄道駅からRoman Roadに戻ることができるようです。宿から鉄道駅までは12㎞になり、それ以前にRoman Roadに戻るすべはないので、12kmより短くはできません。タクシーにVillamarcoまで行ってもらいました。タクシーはMansilliaから来たのでそこから鉄道駅まで行く道は知りません。こういう時は地元の人に聞くものです。地元の人は、「ああ、Camino Autenticoに行きたいのか、それならこの道を行け。」と教えてくれました。なんと、Roman RoadのことをCamino Autenticoと呼ぶではありませんか。つまり、地元の人の頭の中では、Roman Road の方が本物のカミノだと考えているのでしょう。
さて、タクシーに汽車の駅で降ろしてもらったものの、駅舎などは野ざらしになっていて、廃駅になっていました。線路は使われているようなので、それを渡って100mほど茨をかき分けながら北へ向かうと、ありました。昨日歩いた道と同じ歩きにくい砂利道がありました。そこから、Calzada Romana、すなわちCamino Autenticoをひたすら歩きました。昨日と違う所は、バイカー巡礼(サイクリングの巡礼)が2グループいたことで、後の3㎞ほどは無人、建物無しは昨日と同じでした。3㎞ほど行くとほとんど水の無い川、Vale de Valdearcosを渡りました。対岸にKiosk(屋根付き看板)が立っていて、ローマ街道のことを説明しています。その構造とか地図がありました。多分、昨日宿で聞いたAstorgaあたりで掘ったものを輸送した、とかいうことが書いてあるのだろうと思います。
そしてしばらく行くと、Roman Roadに並行して、昔の本物のローマ街道が柵に囲まれて1㎞ほど保存されているのです。これには感激しました。日本の遍路道は、新しい道路がつくと無残にも壊されて新しい道路が旧道を埋めてしまいます。ここでは2000年も前のローマ街道がそのまま保存されているのです。古いものに対する考え方が異なるのを痛感しました。そこから8㎞ほどは、トウモロコシ畑の中の白い道を、カンカン照りの下、ひたすら歩いて2:30ごろMansilla de las Mulasの城門をくぐりました。この村は、周りを城壁で囲んでいて、東西南北に門があります。夕食前には各門を見て回りました。宿は、寝る所、夕食をとるところ、朝食をとるところ、はそれぞれ別の場所でした。
8/19 Mansilla de Las Mulas-Leon 18.1km 壁の村からレオンへ
今日は宿から宿まで歩きます。8:30、ホテルのオーナーのバルで朝食をとり、9:00に出発。Rio Eslaを渡る橋の手前で、村を取り巻く壁が見えました。
同じ方角にいく巡礼が何人かいて、中でもイタリア人の女性が足が遅かったので、しばらく一緒に歩きました。彼女はイタリアにいるママに電話しているか、または携帯で音楽を聴いているので、話はしない方針の様でした。ある時路傍で急にしゃがんだので、何か病気かと思ったら、小さな青い花を摘んで私にくれました。6kmほどで橋の村、Puente Villarenteでは、自動車道N601は長いアーチ橋で、Rio Pormaを渡り、歩行者は別の橋を渡ります。このあたりは、小さな村々が続いていて、市街地のようになっていました。市街地が終わった村はずれから登りにかかりました。4㎞ほどでArcahueja村の入り口に休憩所があったので、私は昼食をするのに座りましたが、イタリア人女性はさよならを言って、そのまま歩き続けていきました。ここから910mの峠、Alto del Portilloまでは緩やかな登りで、Puente Castroには工場などがあり、このあたりから、Leon の市街地に含まれるように地図では書いてありました。実際、自動車道路N601の脇の歩道を通るのですが、交通量が多いので市街地を歩いているのと変わりません。7年前はもう一本北の細い道を歩き、峠近くの青い鉄橋でN601を渡ったように思いますが、変わったのでしょう。峠を過ぎると下りになるところでLeon の市街がよく見渡せました。ここからホテルまでがとても長く感じました。N630のこみあった道路を超えるとLeon 市街になります。Rio Torioを渡り、San Pedro XVIIIとあったので教会だと思って入ったら、Leon市の案内所で、親切に道を教えてくれました。ここからまたかなり歩き、人通りが多くなったと思ったらCathedralの近くに来ていました。ホテルはBasílica de San Isidoro の隣にあり、修道院をホテルにしたものですが、とてもいい場所にありました。翌日のFacebook Liveについて、Mさんと入念に検討しました。夕食は中庭でした。ワインは飲み放題で、料理もとてもおいしいと思いました。
8/20 Leon 休養日
休養日です。朝9時から10時まで大学時代の友人10人ほどとZoom Meetingをしました。フランスのAngles以来のZoomでしたので、その後の進捗状況を話しました。カテドラル見学にホテルを出ようとしたら、おめかしした人たちがホテルに何組かいましたので、結婚式ですかと聞いたら「そうです。」どこですかと聞いたら「カテドラルです。」と言います。これでは、カテドラルは閉まっているかもしれないと思いながら行ったのですが、案の定閉まっていました。カテドラルの博物館が開いていたので見学し、スタンプをもらいましたが、やがて閉まりました。そこで、カテドラル前に集まっている結婚式出席者の写真を撮りました。ホテルの隣のSan Isidoro Museumを見学し、部屋に戻ってFacobook Live の打ち合わせをしました。4時になったので、Liveを開始しました。Live の参加者は私が見えるのですが、私は参加者が見えないので、誰が参加しているのかわからず、何か変な感じでした。「最良の旅の方法は歩くこと」というのを言い忘れました。
それからまたカテドラルに行きました。ステンドグラスは美しいだけでなく圧倒的でした。写真、ビデオ、言葉などで表現することはできないと思います。カテドラル前の広場にLEONという文字があります。これを前景に、カテドラルをバックにした写真を撮りたかったのですが、あまりにも多くの人が順番待ちをしているので諦めました。翌朝来ればいいのかもしれません。ZoomとLiveをしたので、なんか疲れたような感じがしたので、ホテルに帰りました。とても充実した一日でした。
第10章 Leon-Sarria 8/21-9/1 レオン山地を越えて
これまでは、ドウロ川の上流地方、カンタブリア山脈南麓の比較的平坦な北メセタを歩いておりました。ドウロ川水系は鉄の十字架で終わり、以西はMinho-Sil水系に入ります。本章後半では、行政区はカスティーリャ/レオン州から、ガルシア州に移ります。これからの10日余りの間は、Leon山地などの山を越えて歩くことになり、今までの平原歩きとはかなり異なって、起伏の多いカミノになります。スペインのカミノの中での最高地点1505mの鉄の十字架とかガリシア州最初の村で山頂にある村、O Cebreiro 1300mを超えていきます。Loen 820m. 鉄の十字架 1505m, Ponferrada 550m, O Cebreiro 1300m, Triacastera 670mと今までにない登り下りで、熊野古道小辺路ほどではありませんが、それでもカミノにすればきつい箇所と言えます。この下りのおかげで、心配していた腰痛が再発してきました。
8/21 Leon-Villar de Manzarife 21.8km 針のような尖塔
休養日に疲れていたら、何のための休養日かわからないですが、昨晩は疲れたみたいで寝過ごしてしまいました。寝過ごして困るのは、荷物のピックアップで、8時に間に合わせる必要があります。今日は、初めて荷物の運送業者、Jaco trans.に催促されて、慌てて荷物をフロントに持って行きました。今日は、カテドラルと前回泊まったパラドールホテルで写真を撮りたかったので、車を雇い写真を撮りました。Leonは市街地が広く、市街地を歩くのは面白くないので、6㎞先のVergen del Caminoで車を降りました。ここの教会は、天にも届くばかりの高い針のような尖塔があり、遠くからでもよく見えました。ここで道は2つに別れているので、犬連れのカップルに分岐点を聞いたら、親切にも分岐点まで案内してくれました。市街地から急に土の道になりましたが、次のFreznoまではハイウェイが交差していて、騒音が高いと思いました。Freznoからは静かな道になり、ほどなくOnciaに着きました。Virgen から 3.6km もきたのに、まだ塔が見えていました。そこで紅茶を飲み、サンドイッチを買いました。それからの5㎞は何も無い砂利道で、沿道には畑すらありません。5㎞ほど先のChozasに近づいたら小麦畑がやっと見えました。Chozasでランチをし、それから炎天下を4㎞ほど歩くとManzarifeに着きました。村に入って7年前にもこの村に泊まったことを思い出しました。その時には、ここから31㎞先のAstorgaまで一日で歩いたものでした。その時は、オーストラリア人のクレアと一緒に歩きました。今回はAstorga まで2日がかりの計画にしています。
8/22 Villar de Manzarife-Hospital de Orbiego 14.9km オビエゴ橋
今日は距離が短く、宿から宿まで歩きます。Manzarifeの宿を出て、6㎞で運河を超え、次の4㎞でVillavante村に着き、ランチをしました。汽車の線路とか、高速道路、普通の道路などを超え、4㎞ほど行くと、着きました。 Obiego川です。それとマルチアーチの橋です。現在水が流れている川を渡るアーチは2つですが、流れていないところを渡るためのアーチは17あります。以前は、この川幅を必要とする流量があったのですが、上流にダムができたので、流量が減り今の状態になったとのことです。巡礼の救護院(hospital)は聖ヨハネ騎士団によって建てられ、その周りに集落が形成されたそうです。私は、このオビエゴ橋は、ニューヨーク州を流れるハドソン川にかかるTappanzee橋のモデルになったと信じています。宿の前で、コルドバで語学留学中の若い日本人に会い、後刻橋を見ながら夕食を共にしました。
いろいろな伝説のある橋ですが、日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会のガイドブックによれば、「聖なる年1434年、ドン・スエロは9人の騎士と共に、この橋を通ろうとするものと戦い、1か月の間、誰もこの橋を渡らせないか、300本以上の槍を折る(勝利する)と宣言。7月10日から8月9日まで、スペイン人、フランス人、ドイツ人、ポルトガル人、イタリア人の挑戦者と戦い、見事に一人として橋を通さず、誓いを守ったという。なお、折った槍は166本。後略」とあります。
8/23 Hospital de Orbiego-Astorga 17.8km 町を望む十字架の丘
今日も宿から宿まで歩きます。ここからは、巡礼の数が飛躍的に増えたような気がします。多分Leon からスタートした人たちが多いのでしょう。Obiegoをでると、左に行けば自動車道沿い、右に行けば山越えで、前回は左に行ったので、今回は右に行きました。最初の6㎞ほどは、VillaresとかSantibanezなどの村があり、こちらの道を選んでよかったと思った。
しかし、それ以降の8㎞は、起伏のある山越え道で、カンカン照りになってきたこともあり、かなりの労力を要しました。バイカーも降りて自転車を押さないと乗ったままでは登れない坂もありました。Astorgaの町を望む十字架Cruceiro de Santo Toribioに着いた時には、前回を思い出して、とても懐かしい思いがしました。
ここからAstorgaまではまだ5㎞もあります。町の入り口近くのRio Tuerto支流の小川を渡る橋は、3アーチのきれいなローマ橋でした。Astorgaは、ローマ人の町だったので、モザイクとか浴場跡などの遺跡が見られました。また、ローマ街道の要衝であったので、Sevillaからくる銀の道とここで合流します。宿は食堂併設の中央広場に近いいい宿でした。前回はManzarifeから31㎞を歩いたので、市内を見る余裕がなく、是非見たいと思っていたカテドラルを見学に行きました。立派なカテドラルで、偶々パイプオルガンの練習をしていました。ガウディの設計した建物を外から見ました。中央広場では人々が集まってイベントをやっていました。
8/24 Astorga-Rabanal del Camino 20.6km 山登りの始まり始まり
Astorga 900m、 Rabanal 1150m標高差250mに過ぎないのですが、登りの20km以上に挑戦します。スペインのカミノの最高点、鉄の十字架1505mへの登りが始まります。朝は高曇りで涼しい出発でした。Valdeviejas、 Muriasなどの集落を過ぎると、爪先上がりの野中の道で、自動車は通れない寂しい道が2キロ余り続きました。
前回来た時には、Astorga-Rabanalの区間で女性が行方不明になったとかで、当時女性は特に心配していましたが、事件が起こったとすればこのあたりではないかと思いました。今回はそんな話は聞きませんでした。Astorga から7.4㎞で自動車道に出会い、以後Rabanalまで並進します。少々登りらしくなったと思うと、Santa Catarinaの集落に着きましたが、小さい集落なので、すぐに抜けてしまいました。ここから4㎞ほどでEl Gansoに着き、以前ユニークだったCowboyというバルは閉まっていました。その前のバルに入り、サンドイッチを作ってもらって、ランチにしました。ここからは晴れてきて暑くなりました。El Gansoから7㎞を一気に歩いてRabanalに着きました。村の中を急な坂が貫いていて、その左右に家が並んでいます。宿は教会の向かいで、村の中心に近い所でした。山小屋風の小さい宿でしたが、食事は素晴らしく、従業員もよく訓練されていて、気持ちのいい滞在でした。
8/25 Rabanal del Camino-El Acebo 16.5km 鉄の十字架
今日はカミノのハイライトの一つ、鉄の十字架です。海抜1505mでフランス人の道の中の最高地点です。Rabanalの宿の朝食はとても多くて食べきれませんでした。おかげで出発が遅れ、9:30になってしまいました。次の宿場、Foncedebaronまでは5.3㎞、二時間足らずかかりました。道は急ではありませんでしたが、長かったです。この宿場で10人以上の巡礼に会いました。ここから2㎞ばかりで鉄の十字架に着きました。7年前は、巡礼が小石にメッセージを書いて十字架の根元に置いてくるのですが、それ等の小石がちゃんとCareされていたような印象でした。残念ながら今回は小石は散乱状態で、荒れているという印象を持ちました。そこからは、カミノほぼ自動車道に並行していました。Manjarinの集落は荒廃して閉鎖されていました。そこからAlto Alter Mayor 1515mの展望所に登れると地図には書いてあるのですが、実際のカミノは、自動車道の反対側(南側)を通っていて、Altoに登る事が出来ません。地図は全く間違っていると思いました。カミノが自動車道を北に横断する地点からAltoまで行くことをTrayしましたが、止めました。その隣にあるマイクロウェーブの鉄塔が立っているピークに登りましたが、頂上付近は金網で囲ってあり、何も見えませんでした。結局、フランス人の道の最高地点を通過しながら、地図に書いてある展望所には行けず、眺望が全く得られないというフラストレーションが生じただけでした。下り道は土ではなく、色々な形状、大きさの石が重なって散乱している道で、足元が定まらず、瓦礫の上を歩くのに似て細心の注意が要り、時間がかかってとても疲れました。El Aceboに着きましたが、宿は山小屋みたいなお粗末な建物で、部屋も狭くて全く好ましくない感じでした。食事もなく、200mほど離れたレストランに行きました。宿のマネージャー(多分オーナー)はアメリカ人で、意思疎通には問題なかったのが唯一の救いでした。
8/26 El Acebo-Ponferrada 16.2km 急な下り道
この胡散臭い宿は何かあるかもと思っていたら、やはりありました。夜中の二時ごろ、何かかゆいと思って起きたら、Bed Bugが出ていました。二時間ぐらい虫取りをしていたら、いなくなったので寝ました。朝7時に宿の人が出てきたので早速苦情を言ったら、もちろん謝ってくれましたが、この村中で流行っているので、ごく最近燻蒸したそうです。それ以来出てなくて、私が7-8人目の客だが、まさか出るとは思わなかったとのことでした。(この虫についての処置は後日行いました。)ちょっと睡眠不足でしたが、今日は9㎞余りの急な下りがあったので、出発しました。出発時の準備体操でも特に問題なく、前回泊まった次の宿場、Reigo de Ambrosにつくと、腰に少し痛みがありましたが、いつものことなので麓のMolinesecaに向かって下りました。ところが、途中で痛みがひどくなり、ついに動けなくなって休んでいました。通りかかった若い人のグループに、痛み止めあるかと聞いたら、即座にリュックを降ろし、Ibuprophen のイタリア版の薬をくれて、塗り薬も塗ってくれました。私もスーツケースに入れている薬なんですが、まさかこんなことになるとは思わず、この時は携帯しておりませんでした。しばらく休んでいると、痛みが薄らぎMolinesecaまで歩くことができました。ここで先ほど薬をくれたイタリア人の若者グループに追いつきました、礼を言って、バルで彼らと昼食をとりました。ここから今晩の宿があるPonferradaまでの7㎞は、車道があるのでタクシーが使えました。Ponferradaは『鉄の橋』を意味するPons Ferrataが語源とされており、町の中心にテンプル騎士団の城がきれいに残っています。スペイン観光局によれば、「当初は砦であり、その後ローマの城塞都市となりました。12世紀初めにテンプル騎士団がこの城塞を保有し、居住可能な宮殿にすべく、そしてサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かっていた巡礼者たちを保護すべく、補強や拡張を行ったのです。」とあります。
また、西に25kmほど行くと、ローマ時代の金鉱Las Médulasがあり、ここには後日Villafranca del Bierzoのヒメネス氏に案内してもらいました。ここで掘った金が、今週、先週とかその前に歩いてきたMolineseca, Rabanal, Astorga, Villar de Manzarife, Leon, Calzadilla de los Hermanillos, Sahagun など から南のTarragonaまたは北のPanplonaを経て陸路ローマに送られていたとすれば、なんと雄大なネットワークだったのかを想像するだけでも心が躍ります。今まで歩いてきた巡礼路がローマ街道と重なる部分も多く、ローマ人がいかに偉大であったかを改めて認識しています。
8/27 Ponferrada-Villafranca del Bierzo 23.5km 友人は有難い
今日の目的地まで23.5㎞あり、腰痛が悪化しないように、市街地の9㎞あまりを車に乗り、Camponarayaで降りました。 昨日痛み止めをくれたイタリア人のカップルに会い、またお礼を言いました。道端のブドウを失敬して食べてみましたが、種が大きく、ワインには甘すぎるように思いました。少し行くと、農園の人がブドウを収穫していて、両手いっぱいにブドウをくれましたが、両手を塞がれると歩きにくいので、手のひらに載るだけの量をもらいました。途中で40歳ぐらいのイタリア人と会い、次の村、Cacabelosまで一緒に歩きました。以前来た時のCacabelosは、店も何も開いてなくて眠ったような街でしたが、今回は活気があるのに驚きました。バルで大勢の人たちと一緒に食事をしました。それから暑い中を歩き出しました。町中には沢山の人がいて、人口は5千人なので、結構大きな町なのだと再認識しました。Pierosの集落で、道端に車を止めている男性がいて、彼が「Are you Mr. Nishitani?」と聞くので驚いて、ああ、この人かと思い、”Yes、 I am. You must be Jesus Jimenez.” という会話になり、今晩泊まるViljafranca del Bierzoで会うことになっている人でした。京都に住む私の大学の友人が、Jimenez(ヒメネス)氏のお嬢さんの留学中にしばらく預かっていたと聞いていたので、今回その友人からヒメネス氏を紹介してもらいました。Cacabelosに買い物に来て帰る途中だが、乗っていかないかと言われましたが、やはり歩くと言い、今晩会って、コンサートにいくことにして別れました。彼はAerospace Engineerで、長くオランダで仕事をしていたそうです。前回の経験で、ここからのカミノは自動車道を歩く部分があり、それから山道に入りますが、登りなので厳しい所でした。Cacabelosの手前で会ったイタリア人にまた会い、一緒に町に入りました。私の宿は、中央広場に面しているいい場所にあり、7年前に泊まった宿で、部屋も同じでした。
ヒメネス氏がホテルに迎えに来てくれて一緒にコンサート会場に行きました。コンサートは、NYから来たという若いソプラノが、二台のピアノ伴奏でMini-operaを歌いました。そこそこよかったです。終ってからMrs. Jimenezも加わって食事をしました。隣の席に先ほどのソプラノが座っていたので、話しました。ヒメネス氏に、カミノの途中で、Ponferradaあたりからあるものをローマ街道で運んだそうだが、そのあるものとは何かと聞きました。彼は、即座に「「それは 『金』だ。明日金鉱跡へ案内しようう。」ということになりました。
8/28 Vallafranca del Bierzo 休養日 ローマの金鉱見学
11時に出発しました。Google Maps では30分とありましたが、実際は45分ぐらいかかりました。駐車場に車を止めてから600mほど登ります。入場券を買ってHard Hatをかぶります。それから坑道に入りましたが、十分な明かりがついていました。天井が低いので、時々ゴツンとHard Hatが鳴ります。坑道の終わりは、谷を望む絶壁の中腹で、展望台からも見える所でした。坑道を出て展望台に登り、写真を撮りました。まだ金は出るのかという私の質問に対し、受付の係員は「出るかもしれないが、出ないかもしれない。Unknownをあてにするよりも、入場料は確実に入るので、観光地にする方が得策」なんだそうです。それからBierzoに帰り、ヒメネス氏のご自宅でランチをご馳走になりました。Biertzoの町の入り口にお城があるのですが、そのお城の真向いの家を買って、改築したそうで、きれいにデザインと施工がされていました。家の前はカミノでした。それから、ホテルまで送ってもらい、私はブログとかメールのCatch up に精を出しました。夕刻、広場に食事に行きましたら、又ヒメネス氏に会い、お礼を言いました。
「Wikipedia ラス・メドゥラス」はローマ帝国の採掘技術に関して、次のように説明しています。
ラス・メドゥラスの目を見張るような景観は、ローマ水道の建造技術を応用した特殊な発掘技術である「ルイナ・モンティウム(ラテン語:ruina montium、cf. es。「山崩し」の意)」の結果として生まれたものである。
この技術は、水の力を使って山を崩すことで土砂と一緒に目当ての鉱物資源を外へ押し流す方法であり、具体的には、水道によって導いた川の水を山の中の任意の箇所に集中させ、水の力で計画的に削り取ってゆき、それによって流出した土砂から鉱物資源を採取するというものであった。西暦77年に大プリニウスが書き留めていることでも知られ、彼の語るところに基づけば、当地の場合、約35km離れたものを始めとする少なくとも7箇所の水源からローマ水道によって水を引き、メドゥリオ山頂に設けた貯水池に集めて満杯になるまで溜めた後、あらかじめ掘っておいた総延長100kmにも及んだといわれる数多くの地下水路に一気に流し込んで人工的・計画的に斜面崩壊を発生させる、という方法が執られていたという。この方法が200年以上もの間、何度も繰り返されることで、もともと平坦であった台地が複雑な地形に変化していった。すなわち、現在見ることのできる不規則形の連なりから成るラス・メドゥラスの地形は、このようなローマ帝国による大規模採掘時代の後にわずかに残された、かつての台地の一部である。
人工的斜面崩壊によって生まれた大量の土砂は川を作って麓の地域に流入し、人々はそれをふるいに掛けて砂金を採り出したという。また、地表の水道は削り取った土砂から砂金を洗い出す役割にも活用されており、カリフォルニア式水力採鉱 (California gold rush hydraulic mining) の先駆けと言うことができる。
当時、シエラ・デ・ラ・カブレラ(en、ラ・カブレラ山地)からラス・メドゥラスに必要量の水をもたらすために、少なくとも7本の平行な水路が建造された。そのうち、切り立った地形の部分は良好に現存しているものもあり、いくつかの岩刻碑文も残っている。
今から2000年も前にこのような技術を持っていたローマ人は、偉大な人たちだと私は思います。
8/29 Vallafranca del Bierzo-Ambasmestas 15.5km 峠への登り、孫娘の誕生
今日はVillfranca del Bierzo標高500mからわずかに登り、600mのAmbasmestasまでの15.5㎞を歩きます。明日は、標高1300mのフランス人の道第二の高さであるO Cebreiroの村まで登ります。今日の予報は30度を超える温度でしたが、朝は涼しく、霧雨のようなものが降ってきた時もありました。
Villafranca del Bierzoを流れるRio Valcarce上流の狭い谷には、高速道路と普通道路の二本がひしめきながら通っています。高速道路A-6はMadrid からAstorga を経てO Cebreiroの付近にあるPedrafita do Cebreiroの峠を越え、Lugoを経て大西洋岸、カンタブリア海のA Corunaまで伸びている主要な高速道路です。これと並行して、自動車道N_VIが通っています。この高速道路A-6は、峠越えの為に高度を上げていくので、ここから高速道路の高い橋脚が随所に見られます。巡礼は自動車道N_VIの脇のコンクリートの防壁で保護された歩道を、ひたすら歩きます。
Perejeの宿場を過ぎ、10㎞余りでTrabadeloの宿場に着きました。バルが開いていたので、ここでランチをしました。旧街道にそって細長く伸びた村ですが、古い教会があり、風が強かったです。ここから日が出て暑くなりましたが、Trabadeloから5㎞余りで今日の宿場Ambasmestasに三時半ごろ着きました。7年前と比べると、巡礼がとても少ないと思いました。エアコンはなかったですが、風通しの良いいいホテルでした。
アメリカから、大変喜ばしいニュースがありました。次女の出産予定日は私が帰米してからの9/12だったのですが、今日女の子が誕生したとの電話がありました。3人目の孫ですが、女の子は初めてで、とても嬉しいです。
8/30 Ambasmestas-O Cebreiro 13.4km 峠の村オセブレイロ、ガルシア州へ
ホテルを9時過ぎに出て、道路N-VIaを行きました。次の宿場、4㎞先のVega de Vercarseには一時間ほどで着きました。高速道路の高い橋脚があり、ここは前回泊まったところで、泊った宿を懐かしく見て通りました。この村の丘の上には、サラセン城と呼ばれるお城(の廃墟)が望まれます。調べてみましたが、”城は9世紀ごろに建てられ、サンチアゴ巡礼路を守るためにテンプル騎士団によって16世紀まで使用された。以後は使われていない。”とだけしかわからず、なぜサラセンという名前なのかもわかりませんでした。古い巡礼路なので、Ruitelan、 Herrerias、Hospitalなどの宿場が次々と現れ、宿場が終わったところで、道路は急な登りになりました。1㎞ほど行くと、カミノは道路から左に入り、土の道になります。これよりO Cebreiroに着くまで、土の道は等勾配を保っていて、優れた道だと感心しました。土の道が始まってから一時間ほどで、La Fabaに着いたので、ランチをしました。バルではトスカーナに住むと(本人が)いう、韓国人女性がウェイトレスをしていました。ここから、写真を撮りながら、ガリシア州に入り、一気にO Cebreiroまで登りました。
人口60人の山上の小村、O Cebreiroは、今まで登ってきた道を俯瞰する展望所があり、写真撮影にはもってこいの場所ですが、この時誰もいなくて私の写真を撮ってくれる人が見つかりませんでした。小さな教会の前の小さなホテルにチェックインしました。前回は、ここには泊まらずに、Alto de Poioまでいったので、ここは素通りしました。それで、今回はつぶさに村中を見て回りました。この時、展望所でやっと人に遭い、写真を撮ってもらってFBに載せました。今は全国的に広がっているカミノの順路を示す黄色の矢印は、ここの教会の神父さんが始めたと聞いています。
8/31 O Cebreiro-Triacastela 20.7km 登りの次は下り
朝は濃い霧で何にも見えません。出発を9:30に遅らせたら、少し薄くなってきたようなので、出発しました。3㎞先のLinaresまでの自動車道沿いのカミノは、賢い人がつけた道ではないようでした。不必要な登り下りがあって、巡礼をいじめるのが目的なのだと思いました。Linaresにつくと、低い場所の霧は晴れていました。バルが開いていたのでお茶を飲んでまた歩き始めました。一旦下って、急な登りを登ってAlto de Poioに着きました。1:30になっていたのでここでランチにしました。7年前に泊まった宿がありました。ここからは晴れて、暑くなってきました。Fonfriaからは下りとなりBideuedo からはやや急になりました。見たものは、ニワトリ、藁ぶき屋根の貯蔵庫、石造りの小さな教会堂がいくつかありました。なかには、州政府の説明版がありましたので、写真を撮っておきました。Fillobalの手前では、牛飼いが50頭ぐらいの牛をたくみに別の囲いに移していました。掛け声で牛をうごかせるようで、感心しました。Fillobal を出たところから、Triacasteraの村の全貌が見えました。Triacastelaの村の入り口には、大きな木があって、説明版がありました。この村も細長い村で、宿は出口に近い所にありましたが、いい宿でした。食事はレストランまで50mほど歩いていきました。今日はO Cebreiro標高1300m、Alto de Poio 1330m からTriacastela 680mへ、高さにして650m、距離にして20.7㎞の下り道を降りて、腰痛も起らずに胸をなでおろしました。今日で8月も終わり、明日はSarriaで長女の尚子夫婦に会えるので嬉しいです。
9/1 Triacastela-Sarria 18.7km 長女尚子夫妻に会う
レオン山地がどこまでなのか、はっきりと書いてあるものを見つけられませんでした。そこで、一応Rio Sarriaまでと考え、今日のAlto de Ricabo越えもレオン山地に含めることにしました。Triacastelaの出口に、左Samos 19.73㎞、右San Xil 12.53kmとあります。ガルシア地方の朝は曇っている場合が多く、今日もそうです。前回は左に向かいました。Samos で毎晩巡礼の為のミサがあり、巡礼用の讃美歌があると聞いていたので、讃美歌を歌いに行きました。今回は、右の方に行くことにしました。道標に従って登ります。1.6㎞で着いたA Balsaの村では道路工事中でしたが、村が終わるあたりに石作りの小さな教会堂があり、州の説明板がありました。Capela de Santo Antonio da Balsa とあり、説明が書いてありました。そこから1.5㎞ほど登りますと、San Xilの修道院村に着きました。建物がいくつもあり、大きな修道院という感じがしました。修道院から2㎞ぐらい比較的平坦な道を行くと、推定Alto de Ricabo 910mに着きましたが、標識も何もなく、最高点はまだ右の上方にあるのですが、下り始めましたので、たぶんあのあたりなのであろうと思いました。このあたり、地図と現実のカミノが違うようです。(Brierleyの地図は不正確です。)下り道は急でしたが、我慢して下りたら、Montanの集落の教会脇につきました。Triacastela と大体同じぐらいの標高だと思いますので、標高差200m強を上り下りしたことになります。Furelaの町は通り抜け、Montanから5㎞強先のPintin村のバルでランチをしました。Pintin村から2㎞で、Aguiadaの村に着き、Samosからの道が合流しました。ここから先は自動車道路わきの歩道を5㎞ほど行くとSarriaに着きました。
ここで、長女の尚子、夫のBarryとホテルで会うことになっていましたが、ホテルに着く前に、Rio Sarriaを渡った先の長い階段の下で偶然に会うことができました。ここからは、一人で食事をしなくてもいいので、嬉しいです。食事については、尚子が自然と決定権を持つようになりました。
第11章 Sarria-Santiago de Compostela 9/2-9/10 最後の100km
最後の100㎞を歩けば、Compostela、 巡礼証明書がもらえますので、鉄道で来ることができるSarriaから出発する人は大変多いです。特にスペイン人のグループが多く、カミノは縁日の盛り場の様相を呈し、スペイン語が飛び交います。同じ学校の友人たちとか、町内会、何らかの友人たちのグループで話しながら歩くので、とても賑やかです。水系としては、Portomarinまでは引き続きMinho-Sil水系で、PortomarinではMinho川をわたります。Portomarinから15㎞ほど西のSierra Ligondeのあたりから、Minho-Sil川水系からUlla川水系に移ります。Ulla川は大西洋に流れ込む126㎞の短い川です。Santiagoも同じ水系ですので、大きな山越えはありませんが、標高300mから700mのあいだで登り下りがあり、起伏の多い道です。一日の歩行距離が20kmを超える日も多く、カミノの最後を飾るにふさわしい試練が待っています。
9/2 Sarria-Portomarin 22.7km サンティアゴまで100㎞
尚子とバリーにとっては、カミノ初日です。空は灰色で、窓から外を見ると、ポンチョを着ている人、傘をさしている人がいます。ポンチョを着て9時に出発しました。霧雨の中を登って、ローマ橋まで下りました。ここからの距離は113.246㎞という道標があります。ローマ橋では小降りになり、坂を上るので、ポンチョを脱ぎました。坂を上ると、小雨になりまた着ました。結局、ポンチョが要らなくなったのは、出発から一時間半後でした。以後天気はだんだん良くなりました。バルで休みましたが、とても混んでいました。巡礼がみんな同じところで休んだためです。変わった笠を着ているからでしょうが、たくさんの巡礼が私と写真を撮りたいと言ってきますので、快く応じています。トレイルは、Up and Downを繰り返しますが、辛抱強く歩いていきます。サンティアゴまで100㎞の道標があり、尚子、バリーと3人で写真を撮りました。尚子とバリーは店に入ってリュックに着けるホタテ貝を買いました。それからやっとランチをしましたが、3時を過ぎていて私は腹ペコでした。そこから川まで下りましたが、道が二つあり、古来の道と新しい道でした。古来の道を行きましたが、狭く急な箇所があり、結構難しいと思いました。川にきて、長い橋を渡りました。この川はMinho-Sil水系を代表するRio Minhoで、Rio Sarriaの下流になります。橋が終わると、急な階段が待っていました。最後の力を振り絞って14マイル、22.7㎞を歩き終わり、6時にホテルに着きました。いいホテルでしたが、食事は村の中にある食堂に食べに行く必要がありました。幸い、尚子たちが先に行って席を確保してくれていました。こういう点も気分的に大変楽になりました。
9/3 Portomarin 休養日
カミノ最後の休養日. このPortomarinの村は、1960年代にできたダムの水底に沈む予定だったので、村全体を解体してレンガ一つづつ現在の高さに上げ、再び建てたとの事でした。尚子がランチの場所を見つけてくれました。三ツ星ホテルの中のPousda de Portomarin。 Minho川と対岸を見晴らすテラスでおいしい昼食を食べました。午後は、メールとかブログなどをCatch upし、ホテルの屋上にあるJacuzziに入りました。夜8時からミサにでて、スタンプをもらいました。尚子によると、一日2つのスタンプが要るそうですが、今まで私は全然もらってない日も多いのです。これからはスタンプを2つずつもらうことにします。クレデンシャルが二冊になってしまうのですが、仕方がありません。
9/4 Portomarin-Lestedo 19.1km 分水嶺を超えて
Portomarinを9時に出発。一旦川のレベルまで降り、川を渡ります。川端で、警官が二人、クレデンシャルにスタンプを押しています。それから登り坂になり、元の高さぐらいまで登ると、あとは平坦な道になりました。しかし、Gonzarまでの約7㎞は何もなく、自動車道に沿った歩道を黙々と歩くしかありませんでした。Gonzarのバルで一休みして、そこからはCastromaiorの丘に向かって、かなり急な道を登りました。風がきついので、風よけの為にポンチョを着ました。丘の中腹とか頂上近くではとても眺めがよかったのですが、残念ながらこの日はずっと曇っていました。それから国道N630まで下りました。車椅子の巡礼と4人の随行者が歩いていました。国道から1㎞ぐらいでVentas de Naronに2:30に着き、ここで遅いランチにしました。ここにはCapela da Magdalenaという石でできた小さな教会堂があります。ここから登りになり、地図ではSierra Ligonde 720mを超えるというように書いてますが、Naron 自体が700mまで登っていますので、登りはあまりありませんでした。このあたりがおそらく、Minho川水系とUlla川水系の分水嶺だと思われます。Ulla川は大西洋に流れ込む126㎞の短い川で、Santiagoも同じ水系です。下りにかかったころ、横浜在住のJulie Sakamotoと称する台湾人の女性から声を掛けられ、20分ぐらい話しました。私と同じブランドのハイキングブーツを履いていました。なぜ声をかけたかと言えば、私のポンチョにMontbellというブランド名が書いてあったので、日本人だとわかったから、と言っていました。Ligondeのバルで休みました。それから、Aireze、 Portosなどの集落を経て、6時過ぎにやっとLestedoの宿に着きました。行動時間は9時間、距離は19㎞でしたが、どうやら腰痛が出てきたようです。また宿の設備があまりよくなかったので、翌朝までに腰痛が回復すればいいがと心配しながら休みました。
9/5 Lestedo-Melide 20.6km 腰痛
朝焼けでした。出発前に雨が降りだしましたので、カメラをバックパックに仕舞い、ポンチョを着ました。Aolto do Rosarioあたりで一旦雨は上がり、短い虹が出ました。車椅子と随行者4人の一行にまた会いました。Lestedo の宿から5㎞ほどでPalas de Reiに着きました。村の中を歩いていると、雨がまた降り出し、村の出口近くのバルに入ってランチをしました。バルを出るころには雨は上がっていて、歩き出しました。San Xullanには古い教会堂があり、開いていたので、腰を休めるためにしばらく座らせてもらいました。教会を出ると、晴れてきました。坂を降りて、Rio Pambreを渡ると、登りになります。このあたりで、歩き方がおかしくなったのが分かりました。Casanovaという地名の村だったのですが、歩けなくなったところに、偶然タクシー会社がありました。こういうのを天の助けというのでしょうか。車が帰ったら乗せてあげるというので、30分ほど待って乗せてもらい、Merideのホテルまで行きました。夕方、マッサージの人に来てもらって治療をすると、痛みがすっかり引き、よく効いたと思いました。
9/6 Melide-Arzua 14.3km 曇りのち雨のち晴れ
出発前に、部屋から外を見ていたら雨が降っていましたが、有難いことに出発する時にはあがっていました。今日は予備のNikon Coolpixで撮ってみます。村を出るには少し登って、それから下ってSanta Maria の教会を過ぎ、川を渡り森の中の道を登ります。Carballal とかRaido の集落を抜けると、出発から6㎞ほどで Boente の村に着きました。この村を前回通ったのをよく覚えています。教会が開いていたので、スタンプをもらいました。ここからBoente 川に向かって下ります。下る途中で休憩広場があったので、しばらく休みました。川を渡ってまた登り、2㎞ほどでCastanedaに着きました。バルがあったのでランチにしました。イタリア人の25歳の男性がバルにいましたので、話しました。また、隣の席には、40歳ぐらいのイタリア人の女性が、母親らしき人といました。バルを出ると、空模様が怪しくなったので、急ぎました。Castanedaから3㎞でRibadisoの村の入り口のRio Isoに着くと、ワンアーチの美しいローマ橋が架かっていました。
そこを過ぎると雨が降ってきて、Ribadisoの村を歩いている間中ずっと降っていました。そこから3㎞隣のAzuaに入ったら雨はやみ、日が差してきました。Azuaの村は、国道N-547の両側に広がっています。宿は村の出口に近いほうにありました。とてもいい宿で、1930年に建てられて、1930がホテルの名前の一部になっていました。夕食は、ホテルの自慢のおまかせを頂きました。ワインもいいリオハワインがでて、とてもおいしかったです。
9/7 Arzua-Arca 20.6km 巡礼が多い
昨日は宿から宿まで歩きましたが、距離は14.3㎞でした。それでも少し腰痛気味でした。明日は最後の日であり、今日は、20.6㎞なので、全部歩くのはリスクがあると思い、最初の5㎞を車にすることにしました。
10時前にTaberna Velhaから歩き始めましたが、カミノは巡礼の行列になっています。ここまで来ると、目を見張るような数の巡礼が、後から後から湧いてくるように次々と現れます。加えて、二頭の馬がカミノを歩いています。
次の宿場では、ビール瓶を何万本も集め、オブジェにして飾っていました。Breaでランチをして歩き続けました。下って行くとSanta Ireneから森の中に入りました。森を抜けると大きな事業所の様な建物があり、そこがPedrousoの村でした。宿には5時前に着きましたが、あまりいい宿ではありませんでした。これ以上の宿は、この村には無いのかもしれません。お陰様で、腰痛は起こりませんでした。夕食は外で食べました。Arcaという村の名前は、Pedrousoの別名のようです。
9/8 Arca-Santiago de Compostela 20.1km サンティアゴ到着
今日は尚子たちと同時にサンティアゴ入りするために、一時間早くでることにし、5時に起き、7時に朝食、8時に出発しました。Pedrouso を出ると下りになりました。川まで下ってまた登るという、いつものパターンでした。巡礼の人数が多くて、道が狭く感じます。ありがたいのは、雨が降っていないことでした。予報では雨になっていましたが、私の1600㎞最後の日に当たる事がわかって、雨を止めてくれたのかもしれません。ハイウェイをトンネルでくぐるとホテルのBarがありました。このBarは、7年前に休んだところであり、その時は英国人のインテリジェントな女性と話し込んでしまって、時間のたつのを忘れていた記憶があります。
ここから飛行場に向かって登りが約2㎞続きます。空港の滑走路に並行した道へ90度北へ曲がると、土産物屋の屋台が出ていて繁盛しているようでした。しばらく行くと90度曲がって西向きに戻り、下りになりました。滑走路の誘導灯基部を左に見て、右手にはハイウェイを見ながら下っていくとSan Paloの村にBarが2-3軒集まっていました。それから2㎞ぐらいでLavacollaの教会に出会いました。ここで尚子とバリーに追い付かれてしまいました。この村には7年前に泊まった記憶があります。
ここからは、ハイウェイの南側に移ると、これよりサンティアゴまで10㎞とのGarcia州標識があります。尚子たちは先行し、私は自分のペースで進み、Monte del Gozoのモニュメントで会うことにしました。San Marco まで行くと、尚子たちが戻って来たのに会いました。Monte del Gozoにはモニュメントなどはないというのです。そんなはずはないと思って行ってみたら、やっぱりなくなっていました。すぐ近所にあるCapella San Marcoの教会守に聞いてみたら、2021年に廃止になって、基部は地面に移転したとのことでした。それを探していってみると、なるほど基部だった時の彫刻に見覚えがあります。残念だが仕方がありません。目を西に転ずれば、空はきれいに晴れてくれて、サンティアゴ方面の遠景が見えますが、カテドラルはまだ見えません。
ここから約3㎞でサンティアゴの町の入り口に着き、そこからは、街路をひたすら歩いてカテドラルに着きました。
3日前に出会ったイタリア人の25歳の若者と、カテドラル前広場で偶然会いました。彼が言うには、巡礼事務所に今行けば、Compostelaを発行してくれるというので、事務所に行って、証明書をもらいました。前回は長い長い列に並んで3時間ぐらい掛かりましたが、今回は約20分で発行してくれ、大変な進歩だと思いました。証明書を手にすると、やはり嬉しいし、完遂した喜びがわいてきました。これも、家族の支援と、友人たちの応援のおかげです。
ホテルはいいホテルでした。結願のご褒美の夕食はピンチョスとパエリアでした。尚子がしっかりとググっていいレストランを見つけてくれました。
終章
帰米
Compostela(巡礼証明書)を持って、家族の待つアメリカに意気揚々と帰ります。
9/9 Santiago de Compostela ミサ出席
今日歩いていないのは、何か不自然な気がします。明日も歩かないで、飛行機に乗ります。カミノは終わりました。しかし、それを認めたくない自分がいるのです。
カテドラルの正午のミサに出ました。少し早くいったので、座れましたが、それでも後ろの方でした。座れなかった人は、通路にも座っていました。ボタフメイロはありませんでした。普通のカトリックの礼拝よりも、かなり簡略化されていました。讃美歌は全員で歌わないで、テナーのソロでした。
終ってからバルでランチをしました。それから、3人で写真を撮り、尚子たちは買い物に行きました。私もパラドールの中の店で少しだけ買い物をし、外の土産物屋にも行きましたが、あまり土産になりそうなものはありませんでした。それから、カテドラル前の広場を眺めていました。次々に巡礼が到着します。喉が渇いたので、パラドールの野外バルにいって、かなり長い間座っていました。ホテルに帰って、パッキングとシャワーをし、尚子が見つけてくれた「うどん屋」に食事に行きました。昨日はホテルまでタクシーで帰りましたが、今日は歩いて帰れました。
9/10 Santiago de Compostela-Princeton, NJ 空の旅
ホテルを6:30に出て、空港でMadrid 行きのフライトにチェックインしました。飛行機は9:20に離陸しました。下の景色は、サンチアゴ周辺、セントラル山地、マドリッドの近辺などには緑が見られましたが、ほとんどが茶色でした。Madrid には10:30に着きました。次の出発の13:20までは時間があると思ったのですが、マドリッド空港がとても大きくて、空港内の移動に一時間ほどかかりました。American Airlineと共同運航のIBERIA IB6165は、ほぼ定刻に離陸し、8時間後にBostonに着陸しました。Boston Logan Airportで夕食をし、IB4652 にて7:54にPhiladelphiaに着き、リムジンで 10時ごろPrinceton近郊の、尚子とバリーの家に着きました。ホテル出発から家到着まで22時間ほどかかった長い日でした。
9/11 Princeton, NJ-Ridgewood, NJ 虫対策と帰宅
尚子の家でBed Bug対策を行いました。縫い目のあるもの(衣料、バッグなど)は尚子が高温で洗濯し、高温で乾燥しました。縫い目のないもの(プラスティックなど)は、私がアルコールでふき、消毒をしました。私のスーツケース2つと、リュックサックは廃棄しました。これで、虫の処理としては十分だと思います。
尚子の家に預けてあった車でRidgewood、NJの自宅へ帰りました。妻の顔を見たら、カミノが終わったと悟りました。
おわりに
- 経緯
この巡礼は、古希の2013年に、Toulouseからアルルの道を歩き始めて事故に遭いましたが、その時も本当はアルルから出発したかったのです。でも、最初のカミノとして1600㎞は遠すぎると思い、88ヶ所と同じ距離である1200㎞のToulouseから出発したものです。2018年は、私がアメリカに来た年、1968年から50年後でしたので、渡米50年記念で、二回目の四国88ヶ所を歩いて回りました。その巡礼から帰米して、今度こそはと、喜寿記念アルルの道1600㎞を歩く予定を立て始めました。
今度は距離が長いので長期になり、荷物が多くなります。それで、テント泊、アルベルゲ泊は難しいので、ホテル泊に決めました。それから旅行社選びを開始しました。アルルの道の出発点としてはMontpellierから出発するという旅行社が多い中、Glasgow、 ScotlandのWalk The Camino(WTC)という旅行社がアルルから出発すると謳っていました。ここにコンタクトし、歩く距離を一日20㎞以下にして行程を組んでほしいと依頼しました。その後、やり取りを重ね、2019年末には行程を固め、喜寿になる2020年5月から歩き始めることに決めました。2020年2月10日には、頭金20%を払いました。ところが、その直後にどの国もコロナで入国禁止となり、コロナが明けるのを待たざるを得ませんでした。2022年年頭の頃から、5月末出発、6/1歩き始めの予定で行程を確定し、本稿の冒頭にあるように5/28/2022発のフライトに乗りました。 - 齟齬
歩き出すと、色々な齟齬が出てきました。
やはり、2018年の計画開始時より今年の実行までの間、加齢とコロナで思いのほか体力が弱っていた事です。以前は平地では一日30㎞以上難なく歩けていたのですが、今回は7/7の22.9㎞が最長でした。体力が弱っているために、歩く速度が遅くなっていることが、初日の6月1日に判明しました。春のNJの15-20℃の環境から出てきた者が、初日に一挙に夏のフランスのヒートウェーブ35℃の中に入り、日射病にかかってしまいました。この日は20.9㎞mの行程で、20㎞を歩いたにもかかわらず、最後の900mは歩けずに立ち往生しました。この後、このような事を防止するために、20㎞を超える予定の日は、一部を乗り物に乗ることで解決しました。
今回の計画では、5/29から9/10まで全期間宿を予約しており、途中で計画に無い休みを取る事は出来ませんでした。6/1から9/8の間、行動日85日、休養日15日、計100日なのですが、計算上は1600/85=18.8で20㎞以下に収まります。しかし、計算通りに宿があるとは限りません。現実は半数の42日が一日20㎞以上との計画を余儀なくされました。このうち、計画通りに20㎞以上歩けたのは、10日間で、あとの32日は躊躇なく一部の距離を乗り物に乗りました。こうすることで、加齢による致命的な大事故を防げたと思います。
7/4のAuch での嘔吐は予期できませんでした。腰痛はどこかで出るかもしれないと思っていましたので、鉄の十字架の下り等で腰痛が出た事には驚きませんでした。これらの不都合、すなわち日射病、腰痛、悪天候、20㎞超の日の距離・時間の調整により生じた齟齬の大部分を、車、汽車、ヒッチハイクによって解決しましたので、1600㎞全部を歩けたわけではありません。乗り物の距離を足し算してみると400㎞ぐらいになりました。実際に歩けたのは1200㎞ですが、それでも、79歳にしては、大きな事故を防いで最後まで歩き、計画を達成できたと自画自賛しています。それで、「カミノを1600㎞歩いた」のではなく、「距離1600㎞のカミノを歩いた」とご理解下さい。 - カミノを歩いて考えたこと。
- 欧州の人たち、特にイギリス人は50歳代後半までにはリタイアし、60代になるとそれまでの貯えと若さにまかせて、精力的に遊び回っています。それができる豊かさがあるのでしょう。また、リタイア前の若い人でも休暇は一か月ほどあるらしく、悠々と旅を楽しんでいます。イタリアには4年半駐在しましたが、イタリア人は夏の一ケ月、家族全員で海か山の別荘とかホテルで過ごします。西ヨーロッパ諸国には、そういう余裕があるのだと思います。日本はもちろん、アメリカでもそこまでの余裕はないと思います。
- イタリア駐在時には、フランスには一週間程度の観光旅行とか、スキー、登山などにはよく来ましたが、今回は一か月半に亘って、フランス南部の田舎を歩きました。さすが、食料自給率100%の国だけあり、農業への設備投資と自動化には圧倒されました。トウモロコシなどの特に水を必要とする穀物のために、巨大な散水設備と灌漑設備も設置されています。種まき、除草、刈り入れなどの農作業用に、John Deere社製の大型農機具を各農家が揃えておりました。ある人は、昔は農作業に50人の労働力が要ったが、今は2人で済むようになったと言っていました。フランスは食料も生活も豊かであり、国民は礼節を重んじるようで、官僚的という短所はあるものの、国家として自由世界ではイギリス、ドイツと並んで最も安定していると思います。
- アメリカは、自身が認めているように現在実験中の国ですので、この国の評価は難しいです。老成していなくて、若いのはいいのですが、政治も安定せず、生活にも無駄が多くて騒がしく、落ち着いて人生を楽しむには適当な国とはいえません。スペインは国土は乾燥していて農林業は低調と見受けました。人々の間では大きな声で喋りあうのが普通となっているようで、挙措に「品」が乏しく、満たされていない何かがあるように見受けました。
- 2015年にフランス人の道800kmを歩きましたが、日本からの巡礼は2-3人しかおりませんでした。今回は日本から来た巡礼はいませんでした。日本の人はいまだに外の世界に出るのに抵抗感があるようで、ごく少数の海外在住経験者を除いて、明治維新以前の世界観とさほど変わっていないと思います。国民の視野が狭く、また、正確な情報を伝えるべき日本のマスコミにも問題があり、他国のことを十分わかっていないという現状だと思います。このため、欧州人、とりわけオランダ人のように、他の国の人たちと上手にお付き合いができないようです。他の国と上手にお付き合いできないことで、随分と損をしていると思います。キリスト教世界では常識であるカミノ巡礼を知っている人もほとんどいません。残念ながら、日本のクリスチャンでも第3の聖地、サンチアゴを知る人は少ないようです。
日本は耕地が少ない上に土地がやせています。それで食料自給ができず、自給率40%とか言われており、これは国家として致命的欠陥です。さらに、エネルギーもありません。防衛力も大幅に不足しています。少子高齢化は進み、社会補償費は増える一方で、税収は下がり、増税が続くでしょう。又、あまりに自然災害が多すぎます。災害対応で国の富(すなわち国民の努力)が費消されてしまっていると思います。もっとも悲しいのは国家のリーダーがおらず、国民が希望を持てないことです。テスラ―のイーロン・マスクが、「このままでは日本は消滅する」と警告したと聞いています。本当にそうなると思います。我々の子供、孫の代には国外移住すべきではないでしょうか。
- これから
今回アルルの道の起点、Alyscan墓地の道標に、アルルからローマまでの巡礼道1364㎞があることが分かりました。今回のようにその全部を歩くのは無理ですが、FirenzeからRomaまでのLa Via di Roma、またはLa Via di Francescoを歩いてみたいと思います。また、四国88ヶ所に番外霊場20ヶ寺を加えた四国108ヶ所も視野に入れております。ご興味がおありの方は、以下までご連絡ください。
harry.h.nishitani@gmail.com
旅
一歩ごとに変わる景色、
この角を曲がれば何があるのだろうか、
あの坂の上まで登れば何が見えるのだろうか、
最良、最善の[旅]は歩くことです。
古来から続いている「旅」の移動方法として、
最も多く使われてきたのは、歩くことです。
この、歩くことの楽しさを存分に満喫した100余日でありました。
幸いにも今回は事故にも遭うことなく、大きな病気も、怪我もなく、
最後まで歩き続けることができました。
勿論、日射病とか腹痛、腰痛などのため、
乗り物の助けを借りた事はありますが、
それでも最後まで歩き通せたことは、
何物にも代えがたい達成感です。
この、無謀とも思える冒険に送り出してくれた妻、留守を守る妻を支えてくれた娘たちとその夫たち、Facebook Liveに参加して下さった友人の皆様、Facebookの投稿を御覧頂いた皆様、反応してくださった皆様、コメントを頂いた皆様、その他の形で応援してくださいました皆様に感謝いたします。それから、一時帰国中にビオフェルミンを買って来て頂き、8/20のFacebook Liveを企画頂き、この本の出版をお勧め頂いた上にEditorとして、ビシビシご忠告頂きました松本和之さんに、心より感謝いたします。
2022年12月
Ridgewood, NJ, USA にて
ハリー西谷
著者略歴
ハリー西谷は、本名西谷尚武(にしたにひさたけ)で、1968年米国赴任の際に、アメリカ人トップのゴールド氏がニックネームとしてハリーという名前を付けてくれた。また今回のカミノをFacebookしていた所、友人から”Amazing Harry is your new name”と命名頂いたので、大切に使いたい。
1943年徳島県生まれ、関西学院中学部、関西学院高等部、関西学院大学経済学部卒、シャープ(株)に入社、海外駐在員として、1968年からアメリカ合衆国に赴任後、カナダ、イタリア、日本に勤務し、現在はニューヨーク近郊に住む。趣味はスキー、ハイキング、巡礼、合唱。
イタリア・ドロミテの回山スキー、フランス・エギュ・ディ・ミディからガラスの海への滑降、ニューヨークマラソン3回完走、サンチアゴ巡礼フランス人の道800㎞とアルルの道1600㎞、四国88ヶ所1200㎞歩き遍路二回。
合唱は、ニューヨーク・オラトリオソサエティー、メサイアを歌い続ける会(兵庫県)の現メンバー。過去の合唱歴はニューヨーク・コラルソサエティー、NJマスターワークコーラス、関西学院中学部グリークラブ、関西学院高等部グリークラブなど。
関西学院新月会会員。関西学院評議員。ニューヨーク徳島県人会代表。
子供は三人で三人の孫に恵まれている。
付録
巡礼証明書 (Compostela)
公式距離証明書 (Certificate of official distance)
巡礼手帳(Credential=クレデンシャル)
行程表