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2023.0102.(Mon). Chiropractor 3

2023.0102.(Mon).
went to the chiopractor for treatment.
Continue here for the rest of article. part 3 and part 4 which I wrote on Jan.1.

第3部 エピソード集
エピソード 1) こんなところに、、、7/16
「こんなところに日本人が」というテレビ番組がありましたが、それと全く同じことが起こりました。小さなサランスSarranceの村を一巡してから出発。しばらく自動車道N134を行き、カミノの道と交わったところでカミノの道を歩く予定でした。もうすぐカミノの道に入るというその時、追い抜いて行った車が突然Uターン、車から黒髪の女性が現れ丁寧にお辞儀、「こんにちは。」と正しい日本語の発音であいさつされました。えー?こんなところに日本人が!?と驚きました。とにかくNY出発以来48日間日本人には会っていないので、もうびっくり!それと、あと100mほどでカミノの道に入る予定だったので、もしカミノの道に入っていたら、彼女には私は見つけられておらず、大変な偶然でした。翌日の7/17には彼女とご主人と共に、フランス最後の夕食を共にし、壮行会をしてくださいました。ベドウスBedous 近郊に30年ほどお住まいの、中邑みほさんとおっしゃる方でした。
エピソード2) 7/25フランシスコ・ザビエル
峠から一週間、7/25にハビエル城に着きました。このお城は、日本人にとっては大事な場所です。このお城で、日本にキリスト教を最初に布教した、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが1506年に生まれたのです。彼はその後パリに行ってフランシスコ・ロヨラと出会い、イエズス会を結成します。その後紆余曲折を経て1549年に来日しました。1549年といえば、信長15歳、秀吉12歳、家康6歳です。来日当時大内氏の庇護を受けて、主に山口県で布教しました。そのご縁でこの近所にホテルヤマグチがあり、わたしはそこに泊まりました。学生の頃、阪急電車神戸線に乗ると、黒い風呂敷に教科書を包んだ六甲学院の生徒さんが目につきました。今回ザビエルのことで調べていたら、六甲学院もイエズス会が建てたものだと知りました。上智大学、名古屋の南山大学、六甲学院、栄光学院など、イエズス会はしっかり日本に根を下ろしていると思います。それにしても、この時代に日本にやってくるのは、命がけでしたでしょうに。使命感でしょうか。スペインの片田舎に居てそんなことを考えました。
エピソード3) 7月31日 ワインの泉
7月31日、エステ―ジャの村を出て一時間ほど行くと、人だかりがしていて、そこがイラチェIracheのワインの泉でした。栓をひねれば、とめどもなくワインが流れ出てきます。本当はたらふく飲みたかったのですが、朝なので数杯に止めておきました。
エピソード 4) 8月5日 教会とニワトリ
8月5日、サントドミンゴの教会にはニワトリが飼われています。そのわけはここで奇跡があったためです。
サントドミンゴの奇跡:ここで奇跡があった。昔々巡礼が命掛けだった頃、ある若者が両親と遠くからサンティアゴ目指して歩いて来た。やっとこさこの街に荷物を降ろして宿を取った。その旅籠の娘が若者に一目惚れ。迫るは言い寄るはあの手この手で若者に「付き合ってくださいッ」。しかし若者は冷たく「無視」して宿を立ち去る準備。悔し紛れに娘は若者の荷物に銀のコップを忍び込ませた。そして「彼は泥棒〜〜」と訴えた。当時の法律では泥棒は絞首刑。若者は捕まり広場で吊るされた。ところが、1ヶ月経っても若者は吊るされたまま生きている。両親はサンティアゴの巡礼を終えて戻ってきてビックリ。そして若者は両親に「どうか判事に私の無実を話して下さい。私は聖ドミンゴ様に守られております。」そして、何とか判事に謁見が許された両親、判事は食事中。チキンの丸焼きを頬張る寸前「フン!そやつが生きているなどど言うのはこのニワトリが生きていると言うのと同じ事ジャ!」すると突然丸焼きチキンが立ち上がりコッコロコッコッコ〜〜(スペイン語だと鳴き声これ)と鳴いて若者は絞首刑台から降ろされ両親と故郷へ帰って行ったとさ。出典:https://tabispain.com/santo-domingo-calzada/
エピソード5) 8月9日 アタプエルカ原人、2000年世界遺産
午後アタプエルカ原人発掘現場の見学に行きました。アタプエルカ原人については、次の記事を参照ください。
スペイン北部にあるアタプエルカは人口150人ほどの小さな村。ブルゴス県から約15km離れた場所にあるアタプエルカは(中略)広大なカルスト地形のアタプエルカ山脈があり、数多くの洞窟があります。その洞窟では初期人類の人骨や生活の痕跡が発掘され、2000年「アタプエルカの考古遺跡」として世界遺産に登録されました。見つかったものから驚きの事実が判明し、今もなお発掘は続いています。そんな世界遺産であるアタプエルカの考古遺跡を紹介します。アタプエルカが注目されるようになったのは19世紀の末。アタプエルカで鉄道のトンネル工事の際に遺跡が発見されたのですが、実際に発掘が始まったのは1978年です。そして1984年の発掘調査では150体にも及ぶ大量の人骨が発掘され、1992年には完全な人骨も見つかります。これらは最古のもので120万年前のものと言われ、ヨーロッパで見つかっているものでは一番古い時代の骨。世界遺産アタプエルカから発掘された人骨を調査したところ、ネアンデルタール人の祖先と考えられているホモ・ハイデルベルゲンシス、さらにホモ・アンテッサー、ホモ・ハイデルベルゲンシスなどの旧人類から青銅器時代の人類などが生活していたことがわかりました。人類考古学で非常に貴重な発見がされたこの世界遺産は、ヨーロッパで最初に到達した人類の遺跡と考えられているんですよ。現在は発掘現場や洞窟などを見学できます。特に多くの人骨が見つかったシマ・デ・ロス・ウエソスは骨の採掘抗という意味を持ち、観光名所にもなっています。出典:https://skyticket.jp/guide/103702
エピソード 6) 8月22日、オビエゴ橋の伝説
現在水が流れている川を渡るアーチは2つですが、流れていないところを渡るためのアーチは17あります。以前は、この川幅を必要とする流量があったのですが、上流にダムができたので、流量が減り今の状態になったとのことです。巡礼の救護院(hospital)は聖ヨハネ騎士団によって建てられ、その周りに集落が形成されていったそうです。私は、このオビエゴ橋は、ニューヨーク州を流れるハドソン川にかかるTappanzee橋のモデルになったと信じています。いろいろな伝説のある橋ですが、日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会のガイドブックによれば、「聖なる年1434年、ドン・スエロは9人の騎士と共に、この橋を通ろうとするものと戦い、1か月の間、誰もこの橋を渡らせないか、300本以上の槍を折る(勝利する)と宣言。7月10日から8月9日まで、スペイン人、フランス人、ドイツ人、ポルトガル人、イタリア人の挑戦者と戦い、見事に一人として橋を通さず、誓いを守ったという。なお、折った槍は166本。後略」とあります。
エピソード 7) 8月28日 ローマ帝国の金鉱跡を訪ねる
私の大学の友人が、この村、ヴィジャフランカに住むヒメネス氏の友人なので、紹介してもらいました。私は、ヒメネス氏に、「カミノの途中で聞いたのだが、Ponferradaという町のあたりからあるものをローマ街道で運んだそうだが、そのあるものとは何か」と聞きました。彼は、即座に「「それは 『金』だった。明日金鉱跡へ案内しようう。」ということになりました。 入場券を買ってHard Hatをかぶります。それから坑道に入りましたが、十分な明かりがついていました。天井が低いので、時々ゴツンとHard Hatが鳴ります。坑道の終わりは、谷を望む絶壁の中腹で、展望台からも見える所でした。坑道を出て展望台に登り、写真を撮りました。まだ金は出るのかという私の質問に対し、受付の係員は「出るかもしれないが、出ないかもしれない。Unknownをあてにするよりも、入場料は確実に入るので、観光地にする方が得策」なんだそうです。
ローマ人の採掘技術については「Wikipedia ラス・メドゥラス」を参照ください。2000年も前に、このような高度な技術を持っていたローマ人は、またローマ帝国内を縦横にローマ街道を走らせ、宿場を設けていきました。いまでもカミノの多くはローマ街道自体、またはそれに沿って歩いています。これらローマ人の叡智に感心するばかりの100日間でした。

第4部 随筆

随筆1) オランダ人カップル-噂千里を走る
6/4 ヴィジェテジェVilletelleという村で、 オランダ人カップルに会いました。ピクニックベンチがあり、そこで休んでいましたら、本物の巡礼と思しきカップルがやってきました。背が高く勿論、オランダ人で、数か国語を話すみたいでした。ローマからイタリア・フランス国境まで歩いて、二週間サルデニア島で休養し、アルルからまた歩き始めたとのこと。足が速い人たちでした。不思議なことに、この人たちにはこれから何度かお会いするのですが、この時には知る由もありませんでした。私の1600㎞なんかは、彼らにとっては児戯に等しいものでしょう。徳川時代に、日本は鎖国をしながらも、オランダとは通商していたという理由がなんかわかりそうです。私が先に出発し、丘を登り始めました。丘の頂上で彼らに追い付かれてしまいました。とても早く歩く人たちで、易々と私を抜いていきました。丘の上からの眺めは、とてもきれいでした。7/15 ソンポート峠の登り口、Oloron Sainte Marie で再会しました。道標に沿ってDe Lurbe-Ste. Chiristauの村を抜けると、野中の道になります。しばらく行くと、後ろからくる人たちがいて、振り返ると、一ケ月ほど前に会ったオランダ人のカップルです。再会を喜び合いました。彼らは早く歩くので、間もなく見えなくなりました。7/18にソンポート峠を越えて、アラゴンの道に入ると、カミノのインフラが悪く、宿場も宿も極端に少ななりく、その日にはその村のその宿しか泊るところがない状況なので、幸か不幸か一日置きぐらい頻繁に会うことになりました。Ruesta と Monreale では同じ宿でしたし、Unduez、Izco、 Eunate、Puente la Reinaでは村の中とかカミノ上で会いました。アラゴンの道が終わるPuente la Reinaで、彼らは銀の道にスイッチすると言って、Sevillaに向かいました。64歳と65歳のカップルで、とても行動的で、羨ましかったです。
道中、私のうわさがカミノ仲間にあいだで広まっているのが分かりましたが、ニュースソースはこのオランダ人カップルと判明しました。ある時は、自転車に追い抜かれたのですが、その自転車が引き返してきて、あなたがあの有名な日本人か、それならぜひ写真を撮らせてほしいと言って写真を撮って喜んで先に行きました。途中で呼び止められて写真を撮りたいと言われた回数は数知れす、私が79歳で9/2までは最高齢だったことと、四国遍路の笠を着て歩きましたので、それらも噂の種になりました。(9/3に81歳のおばあさんが現れ、最高齢は譲りました)ニュースの少ないカミノ仲間では、こんなことでも噂千里を走るのです。

随筆 2) 最初は何人なのかわからなかった
7月27日の晩は、村の食堂が閉まっているとかで、宿主は5㎞ほど離れた町のレストランに泊り客を連れて行ってくれました。私のほかに4人いて、5人でテーブルを囲みました。最初下手なスペイン語で話し始めると、英語にしてくれと言います。どこから来たのか聞くと、最も予期しない国、ウクライナから来たとのことです。中の一人は、カミ、マンダラ、タイゾウカイ、コンゴウカイなどについて教えろと言いますが、それなら高野山に行ってくれとお願いしました。印の結び方も知っているようで、私よりもずっと仏教には詳しいようでした。
再び、プエンテ・ラ・レイナでも7月28日に会いました。一行はここからサンティアゴに車で行くとのことでした。休暇は一ケ月しかとれていないのでとのことでした。

随筆 3)イタリア人

キリスト教第一の聖地は、申すまでもなくエルサレムです。第二の聖地はローマ、第三の聖地は、サンティアゴ・デ・コンポステーラです。第二の聖地ローマから第三の聖地サンティアゴまでを歩く人がいます。アルルの道の起点には、ローマからサンティアゴまで(1560+1364=)2924㎞と書いてあります。
これ以外にも、イタリア各地から歩いてサンティアゴを目指す人は少なくありません。Novara から、Vicenzaから、Monza から、Milanoから、Bresciaからなどという人たちと会いました。彼らは一様に2500㎞前後を2か月強で歩き通す様です。私は1990年から1995年までの4年半、ミラノに駐在し、イタリア語を話せるようになっていたので、彼らとは当然イタリア語で話しました。多くの人はテント泊でしたが、ジット・アルベルゲ泊もいました。テント泊の人は、20kgぐらいを平気で担ぎ、颯爽と歩いていました。とても頼もしく思いました。
随筆4) フランス人
フランス人がフランスの中を巡礼しているのを多く見かけました。それも、巡礼用語でいう、区切り打ち(全部を歩かず、一定区間だけを歩く)が多かったです。フランス中央山地の下り、6/17のAngresで、女学生の4人に会いました。この若い女学生方は、フランス人なのですが勿論英語もできます。私と英語で話すときには、当然ですが、声は口から出ています。ところが、友人たちとフランス語で話すときには、声は鼻から出ているのです。私にとっては新しい発見でした。
随筆5)ドイツ人
7/31Monjardinの村からLos Arcosまでの13㎞は過酷でした。炎天下、陰はなく、まして水場などもありません。ただ白い道が延々と続いているだけでした。途中でドイツ人の母と娘の巡礼に会い、偶々日陰でランチを一緒にしました。彼女たちに遅れまいと先に出ましたが、すぐに抜かれました。しばらく行くと何か声がするのですが、よく聞き取れず、そのまま行きました。GPSをみると、コースから外れています。地形を見ると、沢が近くにあり(涸れ沢でしたが)、これに沿って行くとカミノに合流するとわかりましたので、沢沿いの道を歩きました。カミノとの合流点で母と娘の巡礼が待ってくれていました。声がしたのは、彼女たちが私に道が違うと教えてくれたものとわかったので、厚くお礼を言いました。
随筆6)イギリス人
6/26は、フランスのモンジスカルMontgiscardで民宿に泊まりました。英語が全く分からない老婆が宿主で、Google Translateを頼りに指示を出してきます。食事は近所のレストランでせよというので、出かけました。村はずれの標識までいきましたが、レストランなどありません。諦めて村の方に戻ると、二人ほどこちらに向かってきます。その人たちはレストランを知っていて、今予約したところだというので、連れて行ってもらいました。村はずれをさらに行ったところでした。二人と思ったが後から二人きて、UKから来た2カップルと判明。Midi運河をクルーズしているという優雅なご趣味の人たちでした。彼らは私の年齢に驚き、職歴に驚き、今回の1600㎞のカミノに驚き、私の話にとても興味を示しました。最後には、割り勘もさせてくれず、彼らがご馳走してくれた上に、宿所まで車を呼んで送ってくれました。 この人たちは50歳代でリタイアしているので、体力にまかせて縦横に遊んでいるのはとても壮観で、私など70歳代も終わりになってやっと、遊びだしたものの時すでに遅く、体の自由が利かないという悲劇に見舞われています。これを貧しいと言わずにはおれません。
随筆7)西欧人
欧州の人たちは、50歳代後半までにはリタイアし、60代になるとそれまでの貯えと若さにまかせて、精力的に遊び回っています。それができる豊かさがあるのでしょう。また、リタイア前の若い人でも休暇は一か月ほどあるらしく、悠々と旅を楽しんでいます。社会全体にそういう余裕があるのでしょうね。日本はもちろん、アメリカでもそこまで余裕はないと思います。日本では、定年を過ぎても年金だけで暮らせず、定年後仕事をする人がほとんどではないでしょうか。その最たる例がお役人です。本省定年後天下りで2-3回退職金を貰うと聞いていますが、そんな方たちはまだ恵まれているほうで、普通の勤め人が定年になっても年金だけでは不足で、夜警とかガードマンとか、その他の肉体労働で収入を得なければやっていけないと聞いています。日本は、GDP世界第三位とか言われながらも、なぜそんなに貧しいのか。それは、国が富んでいるものの、個人は貧しいのだと思います。一方、私が四年半出向していたイタリアの会社の社員は、夏に一ケ月の夏休みをとり、海とか山で一ケ月を過ごします。別荘のある人はそこで、ない人はペンションで一ケ月を過ごします。これはごく普通の人が、みんなそうするのです。退職してもこの生活が続けられるのです。これは、たとえ国家は貧しくとも、個人は豊かのだと理解しました。上記随筆6)の英国人も、50代でリタイアしているので、体力にまかせて遊んでいるのはとても羨ましく、私など70代も終わりになってやっと遊ぶ余裕ができた途端、体の自由が利かないという情けない状態です。
随筆8)日本と日本人
2015年にフランス人の道800kmを歩きましたが、日本からの巡礼は2-3人しかおりませんでした。今回は日本から来た巡礼は一人もいませんでした。日本人はいまだに外の世界に出るのに抵抗感があるようで、ごく少数の海外在住経験者を除いて、明治維新以前の世界観とさほど変わっておらず、他の国の人たちと上手にお付き合いができないようです。他の国と上手にお付き合いできないことで、随分と損をしていると思います。
日本は耕地が少ない上に土地がやせています。それで食料自給ができないという国家として致命的欠陥があります。エネルギーもありません。さらにあまりに自然災害が多すぎます。災害対応で国の富(すなわち国民の努力)が費消されています。自らが国を守る力も気力もなく、外国頼みなのは国家としての要件を欠いています。もっとも悲しいのは国家のリーダーがおらず、国民に希望がないことです。このような国に、子々孫々住んでいく値打ちがあるでしょうか。テスラ-のイーロン・マスクが「このままでは日本は消滅する」と警告したらしいですが、本当にそうなるでしょう。従って我々の子供、孫の代には国外移住すべきではないでしょうか。
随筆9) 名前-Facebook‐Amazing Harry
ハリー西谷は、本名西谷尚武(にしたにひさたけ)と言います。1968年米国赴任の際に、アメリカ人トップのゴールド氏がニックネームとしてハリーという名前を付けてくれました。それ以降ハリー西谷と名乗っています。また、今回のカミノをFacebookしていた所、友人から “Amazing Harry” is your new name. と命名頂いたので、大切に使いたいと思います。
Facebookといえば、今回折に触れて投稿し、友達の方々からコメントを沢山いただいて楽しく会話をしました。また、友人の協力で、Facebook Liveなるものを8月20日に行いました。初めての経験でした。

                                                             完

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