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アイルランド旅行記(6/30/2019 – 7/20/2019)

(前置きがかなり長いので、お急ぎの方は 4 ページの 7/3 Friday From Milano toDublin から始めてください。)

2006年夏に、New York Choral Society(NYCS)のイタリア・ベニス演奏旅行に招かれた。野口章子さんとお っしゃるアルトの方が、1979 年以来、そこで歌っていらっしゃって、招待を受けた。(野口さんは現在、耳の治療 のため休団中) 私は 1990-1995 の四年半、シャープ(株)ミラノ駐在であり、ベニスのサン・マルコ寺院は何度 も訪れていたが、まさかそこで歌うことができるなど想像だにしていなかった。2006 年当時、私は、NY の日本人 の合唱団いくつかと、NJ の Masterwork Chorus で歌っていた。その後、NYCS の 2008 年中国、2010 年シシ リアにも招かれて参加した。2012 年に、指揮者の Jack Goodwin が契約終了となるので、最後の年ぐらいは 団員として歌いたいと 2011 年に NYCS への入団を試みた。

この NYCS の入団オーディションは、難しいことで知られている。当時の NY の日本人の間では、日本人は入 団させないのではないかという噂があった。それは単なる噂ではあったが、野口さん以後の日本人入団者は、音 大出身者ばかりであった。また、一度では合格できず、何度もトライする人もいた。 私のオーディションは、 Jack Goodwin とピアニストの David Ralph で行われ、音域調べ、サイト・リーディング、調音、読詩(英、仏、 伊、ラテンの 4 語の詩のうち 2 語の詩を選んで読む)、自選の歌曲を歌唱というもの。幸いにも、私はその場で 第一テナーとして入団を認められた。音大出身以外では、野口さんに続く二人目ではないかと思う。

いうまでもなく、NYCS 団員の歌唱レベルは高く、Jack の指揮の下でこのような高度な合唱団で歌えて幸せで あった。Jack の前任、DeComier は、ハリーべラフォンテ、ピーターポールメアリーの編曲者だったので、これらの 曲も歌ったが、主なレパはクラシック合唱曲であった。イタリア人テナー、アンドレア・ボチェリのバックコーラスを歌っ たり、毎年のリチャード・タッカー・ガラでは、レネ・フレミングなどのメットオペラソリストのバックコーラスも歌った。

2012 年の演奏旅行は、メキシコで、私は団員としてツアーに参加、Jack と行く NYCS のコンサートツアーは、こ れが最後であった。2013 年には、新しい指揮者を選び、David Hayes というフィラデルフィアの人が振ることにな った。2014 年の演奏旅行は、中央ヨーロッパ、チェコ、オーストリア、ハンガリー、ルーマニアなどで歌った。しかし、 新しい指揮者、David はコンサートツアーの出来栄えには、ご不満だったのか、これを最後に NYCS のツアーは 行われていない。私も、David のレパが、クラシックからコンテンポラリーに移っていくようだったし、ツアーもなくなっ たので、2016 年春を最後に NYCS を辞し、2009 年から併行して歌っていたオラトリオ・ソサエティーに専念する ことにした。David はいつ戻ってもいいよとは言ってくれたが。その後は、時々NYCS のコンサートは聞きに行った し、サマー・シングとか Alumni メンバーとしての催しには参加していた。

昨年暮れ、Jack からメールが入り、アイルランド演奏旅行に行くが、来ないかとお誘いを受けた。二つ返事で 参加を決めた。彼と奥さんのルース、それにもう二人のシンガー4 人で、Viva Voce というカルテットを以前からや っていた。今度は、このカルテットを 36 名の Viva Voce Festival Singers に拡大するが、ツアーには彼の許可 を経ずに勝手にほかのシンガーを誘わないようにと言われた。彼のおめがねにかなう人だけに絞りたいという意向 のようだった。

おりしも、今年は、私が 2009 年以降 11 年歌っている NY で最も歴史のあるオラトリオ・ソサエティーの日本演 奏旅行があり、京都でメサイアを歌ったあと、東京へ観光に行く日程だったが、私はアイルランドツアーの練習が 始まるので、東京にはいかず、6/12 に帰米して Viva Voce の練習に参加した。最終的には、ソプラノ 11 名、 アルト 10 名、テナー8 名、ベース 9 名の38 名となった。その中で日本人、というかアジア人は私だけであった。 (アフリカ系とかヒスパニックは参加したので、白人至上主義ではない。)Jack の練習は自習を重んじ、相変わ らずとてもハードではあったが、とても楽しかった。かくて、ミラノ経由でアイルランドへ出かけることになった。

6 月30 日 Tuesday NY 出発と 7 月 1 日 Wednesday ミラノ着

35 年住んでいるわが町、Ridgewood, NJ から出る三時の空港シャトル便で、四時前にニューアーク空港につく。 エコノミーのチェックインは、相変わらず大変な混雑。United も、こんな小さな空港をハブにしたのは、間違いで あろう。まず荷物のタグをつけるのに、機械の前に並ぶ。機械はターミナル内に六ケ所ぐらいあるが、どれも長蛇 の列。長い列に並んだあと、機械がうまく作動すれば、機械から搭乗券と荷物のタグが出てくる。やり方がわから ずに、長いことかかっている人とか、うまくいかずに機械と喧嘩している人もいる。タグを荷物につけて、こんどは荷 物あづけの列に並ぶ。ここも長い列で、ターミナル全体で六列ぐらいあるみたいだ。それにしても、皆さん辛抱強く 並んでいる。日本だったら、航空会社の職員がつるし上げにあうだろう。ここまでが約一時間だが、これでおわり ではない。今度はセキュリティーチェックに並ぶ。やっと順番が来ると、水のボトルを捨て、靴を脱ぎ、ベルトを外し、 ポケットの中をからにし、ラップトップとスマホを一つのトレイにのせ、別のトレイにベルト、靴、上着、機内持ち込 み品を載せる。人は回転するスキャナーでスキャンされ、荷物は長いことかかるので、人体スキャンが終わってか らも、荷物を待つ。セキュリティーチェックに約 30 分。それからゲートに行く。六時前にボーディング始まる。フル・ フライトだといい、ボーディングのチェックのところで、前の席に替えられた。ほんとは 34A の窓際だったのだが、21D と前のプレエコの通路側だったので、まあいいかと座る。おまけに隣席の人が、アップグレードらしく前の席に移り、 空席になったのでラッキーだった。

8 時間のフライトで、ミラノ到着は、30 分ほど遅れ 9 時五分着。別に遅れの理由は言わない。アリタリアに乗れ ば、Jetway のところにつくが、United は遠くの駐機スポットに泊まり、バスで延々と運ばれる。パスポートにハンコ 押すだけで、フリーパス。アメリカのいやらしい入国審査と比較すると、まことにあっけない。市内行の電車が来な い。25 分ぐらい遅れてやっと来たが、もちろん理由は言わない。電車で Cadorna にきてそこからタクシーでホテル へ 12 時ごろ着いた。三時に銀行に行く。昨年銀行が合併したので、新しい銀行から私の署名が要ると言って きていた。昨年までシャープイタリアにいた、ヌンツィアがヘルプしてくれて、用件は簡単に済んだ。


Duomo 前でヌンツィアと

ヌンツィアは、孫さんたちと、海辺の別荘で夏を過ごすので、昨日アイルランドに住む娘さんと孫さんを連れて、ミ ラノに戻ってきたという話を、そのあとバールで話す。イタリアでは、ごく普通の家庭でも、海辺とか山に別荘を持 つことができるには、とても羨ましい。国は貧しいけれども、個人は豊かなのだ。民が豊かになって、はじめて豊か な国と言えるのであろう。その点、日本はここまでよくやってきたのだが、まだまだ豊かとは言えないし、将来にも不 安がある。というか、いつまでたっても、富は民のものにならないのではないかと危惧する。一方、民は国に頼らな いというヨーロッパ人の姿勢も見習うべきだと思う。
ホテルで仮眠して、7 時半ごろから夕食に出かけるが、ホテルの近所には食べるところはピザ屋ぐらいしかなく、か なり遠くまで歩いたけれど、魚料理の店は閉まっていて、ほかにいいところがないし、歩き疲れたので、どこでもい いやと空いていたバールで済ます。明日は、駐在員の軽部君が夕食に付き合ってくれるので、こんなことはない だろう。10 時ごろ帰って、メールなどチェックする。

7/2 Thursday ミラノの一日

7/2 は、レオナルドの作品を見るために、10:15 の集合時間目指して、ホテルを出る。私の駐在中にオリベッテ ィによる修復が始まった。修復以前は、無料で入場できたが、修復後は、だいぶん前から予約していないと、入 れない。今回のように、この日でないと、という場合には、その日の見学チケットを買いだめしている業者に頼むし かない。という事で、大枚 75 ドル取られたが、修復後をぜひ見たかったので、今日の見学となった。最後の晩餐 をみる前に、Santa Maria del Grazie の教会の見学がある。レオナルドがミラノにきて、スフォルツァ家のために、 教会の普請を手伝い、食堂の壁に最後の晩餐を描くまでのことを、ガイドは長々としゃべる。レオナルドは、 1499 年にフランスへ移り、そこで 1519 年に 67 歳で没したので、今年が没後 500 年になる。教会の見学がや っと終わり、修復後の最後の晩餐を見る。感じとしては、修復前とそんなに変わらないように思える。レオナルド は、フレスコ画の手法が嫌いだったそうで、フレスコ画だったら、もっときれいに残っただろうと思うが、壁の乾かない うちに、絵の具を塗るという手法をよしとしなかったらしい。

Last Supper by Leonardo Da Vinci

見学が終わって、レオナルドの雇い主である、スフォルチェスコ家のお城に行く。このお城の塔が見えるところに、 私は 4 年半住んでいたので、このお城も何回か来ているが、レオナルド没後 500 年にもう一度見学しようと思 い立った。このお城は、現在博物館になっている。見事なのは、楽器の収集で、弦楽器、管楽器は言うに及ば ず、初期からのチェンバロとか、オルガン、フォルテピアノ(今のピアノの原型)などが無数に展示されている。中に は、日本の三味線、沖縄の三糸、日本の琴などもあった。(あまり手入れされていなかったが)ミケランジェロの未完成のピエタ(キリストを亡くした母マリアが悲しんでいるのを現した彫刻ーローマには、見事なピエタがあるが、ミ ラノのは、未完成)を見て終わりにする。お城の前のバールで一服してから、Duomo に戻って、Vittorio Emanuel のがラリアを歩いて、スカラ座まで行ってみる。なんかものすごく人が増えている感じ。びっくりしたのは、リ ナシェンテ・デパートの隣に、Tiffany が出店している。ドアマンに、いつごろから出店しているのかと聞いても、「前 から」としかわからない。できれば、ブランドの店が建ち並ぶ Monte Napoleone の通りも歩きたかったが、気温は 30 度を超え、暑かったので、やめた。

八時に軽部君がホテルにきて、近所のナポリから来た店というのに入る。まあまあの味だが、安い。軽部君は、リ ストラ続きで、いまやイタリアで唯一の駐在員になった。お父さんが、日本の某社ミラノ駐在員だったので、一歳 から9歳までミラノにいて、高校時代はトロントで、トロント大学に入ろうとおもったが、親の勧めでで慶応に入っ たらしい。ミラノには、子供のころ住んでいた家と同じ通りに住んでいるとの事。その後ジェラート屋でジェラート舐 めて、11 時ごろ散会した。

7/3 Friday From Milano toDublin

今日は、ダブリンに向かう。朝ホテルから、リナーテ空港に行く。国内線はほぼこの空港発着。ヨーロッパ便も、半 数はマルペンサ国際空港、半数はこのリナーテ発着。チェックインは、まことにスムース。セキュリティーチェックも手 際がよろしい。離陸は、アムスが混んでいるからとかで、半時間ほど遅れる。天気が悪くて、アルプスは見えない。 アルプス以北になったら天気は回復。アムスの空港は、巨大なうえに設備が素晴らしい。ニューヨークも、ちまち ました空港を 3 つも 4 つも使わないで、アムスのような素晴らしい大空港を作ってもらいたいものだ。ここで三時 間待ち合わせなので、コンピューター使えるように準備してきたが、お昼に二時間かかったので、コンピューターを つける時間が無くなった。つまり、お昼ご飯に二時間かけられるような設備のある空港が要ると思う。駐在時には、 よくアムスの空港でヨーロッパ会議をやった。みんな任地から朝飛んできて、空港内にある会議室で会議、夕刻 任地に帰るので一日で済む。

アムスーダブリンの間は、Embraer 190 というブラジル製の機体で、座席は必ず窓際か通路側、理由は 4 列し かないので、そうなってしまう。

ダブリンの宿につく。とてもいい場所に建てられたいいホテルだが、ダウンタウンから少々遠いのが難点。合唱団の メンバー数名に会う。周りに食べるところがないので、宿で食べる。

7/4, Thursday アメリカでは独立祭、ダブリンでは一日目

ホテルの朝食時、ツアーの団員全員と会う。9 時 15 分にバスが迎えに来るはずだが、来ない。30 分ほどおくれ てきたが、10 時にはリハーサルが始まった。ホテルからごく近くの小さな教会で、ジャックの曽祖父が通っていた教 会だとの事。今日のリハは、今までやってきたように全員が歌うのではなくて、部分的に、また歌毎にソロになった り、ソリ(重唱)になったり,コーラスが入ったり入らなかったり。私は、コーラスの部分しか歌わないが、曲ごとにソロ・ ソリを歌う人は前に出たり引っ込んだりと動かねばならない。歌を覚えるだけでなく、立ち位置まで曲ごとに異な ると、私には難しい。そんなリハが三時間続いて、くたくた。一時半にホテルに帰って、ベッドでゴロゴロしていると 疲れが取れたか、昼を食べる気になった。三時に食堂におりていったら、もちろん客は私一人。それから、市の 中心部を見ておこうと、出かける。近所に電車の駅があるそうなので、そこに向かう。ホテルで聞いたとおりに行く が、念のため通行人に確かめる。確かめてよかった、違った道であった。引き返して、スタバがあったのでそこで聞くと、二ブロック行って IBM のところを右折というから、その通りにし、また通行人に聞くと、間違いだという。次の 人は、私も駅にいくから、ついてこいという。結局、この人が一番正確で、頼りになった。切符の買い方まで教え てくれた。ダブリンの人はみんな親切だが、親切なのと正確なのは、異なる。市内のコノリー駅で降りる。遠距離 列車も発着するので、大きな駅だろうと思っていたが、引き込み線は、電車が二車線、ディーゼル一車線、それ と乗ってきた近郊線二車線しかない。何にしても規模が小さいのである。駅の近くにバス発着所があるので寄っ てみたが、出発口が 10 ほどあり、こちらの方が盛況であった。観光名所に一つに挙げられている、税関の前を 通ったが、ほかの街では観光名所にならないような建物である。次の観光名所、テンプルバーに行くも、人は少 し多いが、いわゆるホコ天で、ダブリン第一番の観光名所というのに、なんじゃい、こんなもんかと思ってしまう。そ の次のダブリン城だが、もう閉まっていた。その近くのクライスト・チャーチはかなり見事と見受けたが、時間的に遅 かった。明日、又は次回にお城と教会みたら、それで市内観光は終わってしまうみたいだ。ついでに美術館とか イェーツの展示あるという図書館も見てみようか。郊外には、面白そうなところがあるようなので、期待したい。

わずか二時間程度で観光地図を東西にほぼ歩いてしまい、少々疲れたようなので、タクシーでホテル(観光地 図では、南東の隅にかろうじて載っている。)に帰ると、たったの 10 ユーロ、いかに町が小さいかという事である。 夕食は、またホテル。

7 月 5 日 Friday, Dublin Concert

今日はコンサートの日。出がけに帽子が見つからない。昨日と同じく 9:15 集合、10 時からリハ。曲ごとに立ち位 置が異なるので、入れ替えの練習を二回通してやり、歌を入れて一回通す。これで一時半になり、空腹も伴っ てくたくた。 ホテルに帰って、帽子を探すが、忘れ物としては届いていないという。そこでまず、昼食。それから、 帽子を売っているところをきいて、バスで出かける。ホテルで聞いたバスの降り場には、行かないで、別のところに 行ってしまう。かなりいい加減なことを教えるのは、この前の汽車の駅をきいたときに経験済みなので驚かない。 でも、そこでもよかった。繁華街だったのでアイルランド土産と称して、いろんなものを売っている店があって、帽子 もその一つ。気に入るのを求めて、繁華街をちょっと歩いてみる。金曜日の午後なので、人出は多い。遅くなら ないうちに、帰りのバスに乗る。でもホテルに着いたら、六時になっていて、7:15 の集合まであまり時間がない。 急いでコンサートの衣装に着替える。急いでコンサートの衣装に着替える。


Church of St. John the Evangel

コンサートは八時からで、指揮者ジャックの曽祖父の家の近くの教会で、ジャックの曽祖父を知っている人も来て いた模様。リハの甲斐あって、演奏会はとてもよく歌えてスムースにいったので、みなさん喜んでくれた。ジャックの親戚の人が、レセプションと称して、サンドイッチとワインで歓待してくれたのは、ありがたかった。とにかく、初回の 演奏会がうまくいったので、とても安心した。

7/6 Saturday Dublin to Galway, Viking Cruise

今日は西海岸への移動日。西海岸と言っても、高速で三時間も走ればついてしまう。ほんとに小さな国なので ある。昨晩の聴衆の中に、ダブリンの市会議員がいた。Brexit は、アイルランドに有利に働いているそうだ。 Google, Microsoft, Facebook, Linked in などがオフィスを新設とか拡張しているとの事、理由は、アメリカに近 いこと、それに英語圏で EU に残る唯一の国になるからである。そういえば、ホテルの近くに IBM の新しいオフィス があった。北アイルランドは、英国の中にあるから、当然 EU から離れてしまうが、何年か前の合意で、北アイル ランド人が希望すれば、アイルランド共和国の国籍も取得できるのだそうだ。当然、みんな希望するだろうと思わ れる。

今日からガイドがついた。名前は Clare McCarthy。彼女によると、アイルランド共和国の人口は 450 万人、北 アイルランドは 150 万人だそうだ。両方合わせても、大阪市の人口に満たないのだから、ほんとに小さい。ここに 来るまでは、アイルランド系のアメリカ人が多いので、もっと大きな国だと錯覚していた。米国には、アイルランド系 が 4 千万人、本国の人口の7倍にもなる。

さて、バスはシャノン川のほとり、Athlone に着いた。この川は、全長約 350 km、南北に流れているアイルランド 一の大河。しかし、高低差があまりないので、我々の感覚からすれば、長い水たまりという感じである。Athlone からバイキングクルーズと称して、小さな船で川を下る。バイキングが川沿いに登ってきて、狩りと漁で食べていた が、やがて農耕に移ってきたそうだ。バイキングにも、いろんな源流があるみたいで、ノルウェー系、デンマーク系、 フィンランド系とかがあって。その間でも争いがあったようだ。いすれにせよ、アイルランド人の源流はケルト人に北 欧バイキングが混じったという事になっているらしい。Clonmacnoise というところで降りる。ここには、キリスト教(と いうから、時代はもっと下がっている)の遺跡があり、ガイド付き見学をした。訛りの強い早口だったので、よくわか らなかったのは、私だけではなかったようだ。ここは観光地なので「クロンマクノイズ」で検索されたい。


Clonmacnoise

それから、Shannonbridge というところのパブで昼食。Galway のホテルには、六時ごろついたら、結婚式の披露 宴をやっていた。7 時からゆっくり二時間かけて夕食。

7/7 Sunday アラン諸島のうち、イ二シュモア島

8:30 集合、スーザン、ナンシー、ジョウの四人。ガルウェーの町の旅行社で切符を買い、九時半のバスで港に 向かう。10 時半の船で 11 時 10 分、イ二シュモア島に着く。客待ちしているバンの中から、ジョウが一台雇ってく れた。バンで砦の麓の村、Kilmurvy に行く。Dun Aonghas ドンエンガス砦はここから登る。 砦までのの登りは、 標高差 200 フィートしかないので、大したことはないが、登りは登りである。砦からみる 300 フィートの絶壁、どこ までも続く絶壁の海岸線は素晴らしい。

InisMor Island in Aran Islands

雨がぱらつているが、日も出ている。ナンシーは足が悪いようなので、エスコートして降りる。麓でサンドイッチの昼 食をすませて、島の西に向かう。

ドライバーの案内によると、島の人口は 800 人。警察官は二人。事件はなし。電気は本土から。水は泉から。 学校は 8 校。見るところに寄れば、島のほとんどは、雑草で、木の生えているところは一か所だけ。牛か羊を飼 っている。産業といえば、セーターを編んでいるのと、柳の枝で台所用品(ざるなど)を作っているぐらいで、ほとん ど観光だけのようだ。

石積みの塀をよく見かける。人間の背丈ぐらいの塀が石で作られ、延々と続く。よくこれだけ石を積んだものだと 感心する。天気が良くなってきて、本土がよく見えている。三時半ごろにバンにお金を払い、土産物屋を覗く。ジ ョウが、アコーディオンの原型のような小さな楽器を弾いているのを聞いたりした後、5 時の船で帰る。ジョウの知っ ているガルウェー郊外の海辺のレストランで、7 時からシーフードの夕食。ワインはボルドーの赤を選んだ。とても おいしかった。Drumbuie があったので、頼む。ホテルには、9 時過ぎについたが、すぐに寝てしまった。

7/8 Cliff of Moher

今日の集合は、九時半と遅いが、かなり盛沢山であった。まず、予定表にはなかったチョコレート工場の見学が あった。もっとも、トイレ休憩が本当の目的なのであろう。皆さん、お土産に買い込んでいたが、私は荷物になる ので、自分が食べるために一枚買っただけ。ついで、巨人のテーブル。どうやって大きな屋根の石を積んだか、い まだに謎。

巨人のテーブル

それから、モハーの断崖のビジターセンターで昼食。モハーの断崖は、有名な観光地なので、混んでいる。ビジタ ーセンターと崖ぶちのハイキングトレールの交差点から、北に 8 kmの Doolin というところまで歩く人が約 20 人、 バスで行く人が 30 人ぐらいだった。もちろん私は歩いた。北の Doolin に向けて歩き始める前に、南のトレールを 登って、断崖の写真を撮った。この間、約 30 分かかった。

Cliff of Moher

再びビジターセンターからの道との交差点に降りた。それから、北側の断崖に沿って登り、Doolin へ歩き出した。 まあ、普通のハイキングコースなので、8 kmを二時間あまりかけて、Doolin に着いた。景色も天気もよくて、いい 写真がいっぱい撮れた。ところが、出だしのところで南へ一回登ったことにより、ほかの人よりも歩く時間がかかって しまったらしく、私が最終到着者になっていて、マラソンの最終ランナーみたいに拍手で迎えられた。

ここ Doolin の Pub で夕食。アイリッシュの楽団(4 人)もゲストに呼んでいて、我々も歌った。7時ごろ出発した が、ここからの帰りが結構時間かかり、トイレ休憩も二回あって、ホテルに着いたら九時になっていた。

7/9 観光地ではないところ

今日は、Roscommon というところへ移動するだけなのだが、途中に寄った博物館とかお屋敷なども、目的地の Roscommon も観光地ではないので、詳細は、普通のガイドブックには載っていない。途中に寄った Strokestown Park House と併設の飢餓博物館の詳細は、
http://www.strokestownpark.ie/about/

九時にホテル出発、Strokestown Park House には 11 時ごろ到着。

Stroketown House は、大きなお屋敷で、16 世紀の城跡に建てられた Pakenham Mahon family の住居で あった。我々は、その住居はを見学した。古楽器などあり、興味深いものであった。壁で囲まれた 6 エーカーの 庭があるとの事だが、ごく一部を見せてもらった。水連が美しかった。住居の改修時に、古い書類が見つかり、こ れをもとに屋敷の一部を「飢餓博物館」として公開している。

以下は、地球の歩き方からの引用である。「1845 年に始まったジャガイモの立ち枯病は、瞬く間にアイルランド 全土に広がり、産業をジャガイモ栽培に頼り切っていたアイルランドは大打撃を受けた。この危機に対してイギリ ス政府(当時はイギリスの施政下)は、有効な対策を取らず、アイルランドではこの飢饉によって 100 万人が餓 死、


飢餓博物館への案内

このお屋敷の一部は、レストランとなっていて、ここで昼食。二時半にバスで出発し、ロスコモンのホテルには三時 に到着。希望者は、ロスコモンの市内見学に参加。観光地ではないので、あまり観光客はいないが、市のガイ ドは張りきって案内してくれた。ロスコモンの廃城は立派であった。それと、勿論教会は立派であった。57 丁目の Judi が、(もう一人同姓同名の Uptown Judi がいる)とスーザンは、演奏旅行の際には、日本人参加者と夕 食を一回付き合ってくれる。今回の日本人は私だけだが、彼女は律義にこの習慣を守って、この晩、ツアーお 勧めのレストランで夕食。四人でホテルまで歩いて帰る。



me, Suzan, Sherrin and Judi

7 月 10 日 二回目のコンサート

今日は、Roscommon で、Percy French という作詩作曲家の名前を付けた Festival があるので、そこで演奏 する。指揮者の Jack Goodwin が、この French の Great Grand Nephew になる。Goodwin の曾祖母の Emily がこの Percy French の Sister になる。French の作詞作曲した曲を Goodwin が合唱曲に編曲したが 5-6 曲あり、それを含めて 20 曲ばかり歌う。French という作詩作曲家は、Wikipedia に載っているが、当地で は有名な作詞作曲家である。

https://en.wikipedia.org/wiki/Percy_French

冒頭の説明は、William Percy French (1 May 1854 – 24 January 1920) was one of Ireland’s foremost songwriters and entertainers in his day. In more recent times, he has become recognised for his watercolour paintings as well. 後日、ダブリンのタクシーに乗って、ウチの指揮者は、French の親類だと言ったら、びっくり仰天していた。

10 時 45 分ホテルからバスが出る。雨が降ったりやんだり。11 時半から昼食。その後リハーサル。本番は特設の テントで二時半。聴衆は約 100 名。その後、テントに隣接するフェスティバル主宰者のお屋敷を見学して 5 時 に帰途につく。雨が降ってきたので夕食はホテルにする。


Percy French Festival venue

第 11 回パーシー・フレンチ・フェスティバルは、今日から 3 日間行われる。概要は、ここに出ている。 http://percyfrench.ie/ 午前中は、レクチャー、午後はエンターテイメントの性格が強い。このプログラムの中で、 我々は次のように紹介されている。

Viva Voce Festival Chorus singers from New York City share a love of great music, international travel, good food and fine company. A Viva Voce can be loosely translated from Italian as ‘by word of mouth’. As word of a summer concert tour to Ireland spread through the community of choruses in New York, our 39 singers gathered, many of whom have performed on international concert tours led by John Daly Goodwin over the past 30 years–including tours to Austria, the People’s Republic of China, the Czech Republic, France, Greece, Italy, and Mexico. During his distinguished 38 year career, conductor John has led concerts in major venues worldwide including Carnegie Hall and Lincoln Center in New York; the Shanghai Grand Theatre; the Palacio de Bellas Artes, the Sala Nezahualcóyotl, and the Ollin Yolitzli Centre in Mexico City; the cathedrals of Notre Dame and Chartres, France; and the Basilica of San Marco, Venice. John is the great-grand-nephew of Percy French and has deep familial roots in Dublin and, on his mother’s side, in Bandon, County Cork. He is thrilled to be making his concert debut in Ireland with his musical friends from New York City.

7/11Thursday Roscommon から Skibbereen ヘ

9 時に Roscommon をバスで出発。途中 11 時半から 2 時までこのお城、Bunratty Castle 見学、中は 4 階 建てで、中世の香りのする質素な部屋であった。その付近は昔の民家、商店などが並ぶ公園になっていて、そ のうちの一軒で昼食、二時からひたすら走って 7 時に Skibbereen のホテルに着いた。


Bunratty Castle

7/12 Friday, concert day in Bandon

今日は、最後のコンサート。ホテル出発は 11 時。

会場の Bandon という街に行くまでに、Kinsale という街による。この街に入る手前、約 15 kmのところで、きれい な海岸があり、写真撮るために止まる。Kinsale には、二時ごろに着く。ここで、各自昼食。Aran Island に一緒 に行った Joe と昼を食べ、Charles Fort という砦に行く。片道 3km。歩いて約 45 分のところ。五稜郭のように 五角形の砦が、Kinsale の港の入り口を守っている。

Bird’s eye view photo of Charles Fort

四時に砦を出て帰り、バスは 5 時に出発、コンサート会場の Bandon には6時前に着き、リハーサル。開場は 7 時半。満員である。8 時からコンサート始まり、九時半ごろに終わる。400 人ぐらいの満員の聴衆の反応がとて もよくて、皆さん大いに喜んでくれた。この町には、Jack Goodwin の親類がいて、コンサートに来ていた。終わっ てから手作りのサンドイッチ、チーズ、ワイン、お茶でのレセプション。終わってバスでホテルに着くと、丁度夜中の 12 時を回ったところだった。

コンサートの録音:http://davidsnowmusic.org/album/audio_a_viva_voce_20190712.html

7/13 Saturday コンサートあけ Mizen Head and Bantary House

昨晩のコンサートの後で、おいしいチーズをいただいた。さすが酪農の国だと思った。今日は、コンサートがすべて 終わったので、みなさん、顔色が明るいようだ。朝は、少しゆっくり 10 時に出発。私が NJ で買ったガイドブックに も、地球の歩き方にも載っていないが、どこかで写真見て、行きたいなあと思っていたところ。大西洋の波が打ち 寄せる岬に灯台がある Mizen Head というところである。


Mizen Head

それから、近くの Bantary という、小さな町の外れにある、お城(というか大邸宅)を見学する。

代々地主であったので、湾を望む高台に邸宅を建てて増築、ローマとかパリでいろいろなものを買い込んで飾っ てきたので、見ごたえがある。裏山から見下ろすと、裏のイタリア庭園、邸宅、海を見下ろすことができて、とても 美しい。今日は、早めに帰って、7 時半からツアー最後の夕食会を全員参加で行う。夕食会では、多才な人 たちがそろっているので、いるいろなスピーチとか替え歌など紹介された。あっという間に三時間がすぎてしまったの で、私は部屋に引揚げた。

7/14 Sunday ツアー最後の日 ダブリンへ

朝 8:45 に集合し、ホテルの前で記念写真を撮る。

ここから、ダブリンまで、まっすぐ行けば 4 時間ぐらいで行けるが、アメリカ向けの飛行機は、ほとんどが朝に出るの で、ダブリンでもう一泊必要となる。という事は、ダブリンに今日中に着けばいいので、通過する地域の中で、名 所を二か所回る。

12 時前に、Rock of Cashel に着く。教会であり、要塞でありという場所で、1647 年、イングランドのクロムエル の侵攻までは、宗教の中心地であったところ。今は廃墟になってしまっている。

Rock of Cashel

一時間ほど見学して、次の観光地である Kilkenny Castle に向かう。12 世紀に建てられて以来、バトラー家の 居城であった。1967 年に 50 ポンドで市に寄付されて市民に開放された。敷地はとても広くて、きれいな芝生が 植わっているが、境界が見えないほど、遠くまで続いている。


Kilkenny Castle

この町は、中世の街として知られていて、細い路地などに、その香りがする。次の名所は、カニス大聖堂。 Round Tower には登る時間がなかった。四時半にキルケニーをでて、六時半にダブリンに着く。

ジョウがシーフードに行こうというので、ナンシー、57 丁目 Judi とその友人、カレン夫妻、アップタウン Judi 夫妻、 9 名でタクシーに分乗して、ホウス Houth という観光港でのおいしいシーフードで、ツアーの最後を締めた。

7/15 Monday Dublin

今日から団体行動ではなくなるので、思い切り朝寝をしようと思ったが、12 時にチェックアウトせねばならない。ぎ りぎりに間に合った。フロントで、NY に帰る連中が 5-6 人いて、空港行シャトルにのるところだったので、一緒に 乗る。本当は、タクシーで今夜の宿に行くつもりだったが、特に急ぐこともないので、いったん空港に行って、空港 からバスに乗ることにする。空港は、一階がチェックイン、二階が到着、三階出発となっている。バスのりばでチケ ット買う。9ユーロもする。タクシーでも 30 ユーロぐらいなのに、ちょっと高い気がする。

ホテルに着いて、二週間前に泊まって、気に入ったので今度は 5 泊すると行ったら、ジュニアスイートにアップグレ ードしてくれた。といっても、部屋にソファがあって、バスローブがついているというだけの話だが。

翌日以降の予定を考えた。

16 日 火曜日、ノーベル賞受賞の文学者、イエーツのふるさとスライゴへ
17 日 水曜日、市内
18 日 木曜日、北の海で、柱状節理の見学
19 日、金曜日、市内
20 日、土曜日、帰米

と、市内と市外を交互にした。

汽車の切符はどこで買えるかホテルで聞いたら、スライゴは西だから、町の西の駅、Hueston 駅に行けという。へ えーと思いながら、地球の歩き方で確認すると、コノリー駅発となっている。この謎を解くべくネットで見てみると、 Hueston 駅からコノリー駅で乗り換えてスライゴに行くことが分かった。これも、アイルランド人は、親切なのだが不 正確という特徴が出ている。

ついで、スライゴ行の汽車の切符を買えるかネットで見たら、売り切れとなっている。日程変更するか、バスにす るか悩んだが、とりあえず駅にいって、どの程度混んでいるのか聞いて見ようと、コノリー駅に電車で行く。

コノリー駅の切符売り場で聞くと、席はあるという。ネットでは売り切れとなっているがというと、アロケーションの問 題だと、禅問答みたいなことを言う。

それから、木曜日のバスのツアーを申し込みに行く。駅の近くだったので、助かった。ホテルに帰るバス乗り場は、 ちょっと遠いが歩いてバスで帰る。ホテルの裏のコンビニに寿司(という名前の珍妙なもの)があったので買って帰 る。細巻きの具に生ニンジンとかツナマヨが入っていたりで、あまりおいしいものではない。

7/16 Tuesday visiting Sligo

コノリー駅 9:05 発のスライゴ行汽車の中。四人掛け(二人がけが向かい合わせで間にテーブルがある単位で 便宜上 1 ボックスとよぶ)が、片側8ボックス、72 席ある。ほとんどは、一ボックス一人という状態で、たまに家族 連れなどが2ボックス使っている場合もある。いずれにせよ、ガラガラであるのに、なぜネット売り切れになるのかわ からない。

スライゴでは、イェーツが埋葬されている墓とその教会、イェーツ記念館、県立博物館、Abbey(大きな教会)を 見る予定で、15:05 または 16:55 の帰り便に乗れればいいと思っている。

窓の外は、穀物、ジャガイモの畑などが見えていたが、次第に牧草地になってくる。針葉樹の森も残っている。 牧場に牛が点在する農村風景は、今までバスから見てきたものと変わらない。山がなく、緩やかな丘が続く。

Edgeworths の駅に 10:37 に着く。反対側の線路には、退避列車がいる。単線なのだ。駅前に家は見えない が、発車後に駅から離れたところに数軒の家があることがわかる。

Longfort に着く。かなり大きな町で、駅付近には、集合住宅が見える。教会の尖塔もいくつか見え、駅前には バスが並び、西側には倉庫とか工場が並んでいる。
11:35Boyle に着く。地球の歩き方にも紹介されている。

12:20 五分おくれで Sligo につく。駅は町はずれにあるようだ。Yeats の墓は、町の北約 15 キロにあり、駅前に 並んでいるタクシーに乗る。約 15 分で Drumcliff の街に着き、町はずれの教会の墓地にイェーツの墓はあった。 何の飾りもないシンプルな墓標である。


Grave of Willy and Georgeanne Yeats

この町は、母親の里でイェーツが子供時代を過ごした町。イェーツはダブリン生まれでフランスで亡くなったが、マス コミの騒ぎが終わったら、スライゴに移してほしいという言葉を残したそうだ。夫人も同じ墓に入っている。教会は シンプルなつくりで、ビジターの記帳簿があったので、記帳した。

出口にギフトショップがあり、数点選んだが、チェックアウトのレジスターが一台しかなく、コーヒーを飲む団体の人 の列が延々と続いているので、お土産を買うのはあきらめた。帰りのタクシーからは、ベンベルバンのテーブルマウ ンテンがきれいに見える。

町に戻り、タクシーのドライバーおすすめの店で昼食。ホテルに置いてある手持ちコンピューターのマウス機能がう まく働かないので、外付けマウスを買おうと、いろんな人に聞いてやっと見つける。それから Abbey にいく。英国の アイルランドいじめの記念品であるとおもう。立派な教会であっただろうが、クロムウェル英国軍に徹底的に破壊 され、今は廃墟として残している。イェーツ記念館はパネルと写真の展示だけだったが、説明の人が家族に会っ たことがあるというので、とても詳しい説明であった。県立博物館は簡素な展示であった。駅に向かう途中で、彼 の銅像を見つけられたのは幸運であった。駅に行くのは少し早いかなと思いながら駅に着くと、汽車はもう出ると いう。私は時刻表の 17:10 発と勘違いしていたが、正しくは 16:55 発で、辛くも間に合った次第。後で時刻表 よく見たら、17:10 は、ダブリン発の時刻だった。途中、Carrick-on-Shannon という駅があり、シャノン川を渡る。

こんなところまでシャノン川は流れているのだと驚く。帰りは、どこから複線になるか注意していた。どうも、 Maynooth より東は複線になったいるようだ。Maynooth からダブリンまでは約 40 分。ダブリン着 20:30.到着し たコノリー駅の別のホームに、とてもきれいな列車が止まっていたので、係員にどこ行きなのか聞いたら、ベルファス ト行ですとのことであった。コノリー駅から、Dart の電車にのり、コンビニによってホテルに帰る。

7 月 17 日、Wednesday ダブリン

17 日は、午後になってからダブリン市内で、メサイア初演場所を探した。ネットでみたら、The New Music Hall 、 Fishamble St.が初演場所とあり、Google map で探したら、Fishamble St.というのは見つかった。

行ってみると、Handel’s Hotel というホテルが建っていて、そこで聞いたら分かるかもと思い、聞いてみると、そこの 隣の敷地、門が閉まっているっけど中覗いたら、銅像が見えますというのでそうしてみたら、確かに指揮棒を持っ た人が指揮をしている銅像があり、その銅像に至る通路の脇の銅板に GEORGE FREDERIC HANDEL CONDUCTED THE FIRST PERFORMANCE OF MESSIAH ON THIS SITE ON 13TH APRIL, 1742 と 浮き彫りになっていた。

その近くに、Christ Church という大きなカトリックの教会があり、つぶさに見学した。教会の人と偶々メサイアのこ とで話すと、「ヘンデルの初演には、この Christ Church のクワイヤーと、近くの St. Patrick Church のクワイア が歌ったのですよ。The New Music Hall はもうありません。」とおっしゃった。それから、近所のダブリン城を見学し た。規模は小さいが、一応、それなりの体裁は整っていたのだなあと思わせるものがあった。


Dublin Castle Ball Room

国立図書館に、イェーツの展示があるそうなのだが、時間的に遅いので、金曜日に回すこととし、明日木曜日 は、北アイルランドに出かけ、Giant’s Causeway という六角柱でできた海岸、(柱状節理というそうだ)を見てく る予定。

7 /18 Thursday Giant’s Causeway

ここの柱状節理は以前からぜひ見たかったので、ツアー申し込んでいた。何しろアイルランド島の北の端まで往 復するので、13 時間かかるとの事。朝 7 時半発なので、六時半にホテルを出たら7時に待ち合わせの旅行社 前に着いた。予定通り、出発。前から二列目のいい席が空いていた。隣はアジア人の女性。後で聞いたら、上 海付近から来た中国人で、リバプールで IT 関係の仕事をしているという。名前もきいたが、発音できない。途 中二回休憩して、11 時半に北の海岸に着く。途中で、英国領の北アイルランドに入っているのに、国境管理 が全然ない。北の海に、小さなつり橋で対岸の小島にわたるところがあって、一時間ほどかけて往復する。それ から、昼食と移動でいよいよ柱状節理のところには 13:50 から一時間半見学。よくもこのようなものができたも のだと感心する。自然現象とはいえ、人間にはとてもできないこと。

午後 5 時から一時間、北アイルランドの首都、ベルファストで自由時間。町の中を流れる川の名前が最初は、 孫の名前の Logan かと思っていたら、よく聞いたら Lagan だった。アイルランド共和国の首都、ダブリンの人口が 百十万人、英国領北アイルランド首都のベルファストは 50 万人と半分以下。ショッピング・モールにも寄ってみ たが、あまり活気が見られない。通貨は英ポンドなので、買い物はしにくい。絵葉書買ったが、ユーロで支払いの 場合は、ユーロの札しかとらないし、釣りはポンド・シリングで出すという。6 時に出発、英国領からアイルランドに 入るが、国境管理は全然ないし、どこが国境なのか全く分からない。英国 EU 離脱 Brexit で、この国境管理 どうするかいまだに解決案出ていないが、本当にどうするんだろうか。8 時にダブリン着。9 時にホテル着。

7 月 19 日、Friday アイルランド最後のフルデイ

昨日の疲れを持ち越さないように、今日は午後から国立図書館見学だけにしようと出かける。国立図書館には、 イェーツの展示があり、評判になるだけあって、非常にいい展示だった。

彼の自筆の原稿とか、校正などが展示されていて、スライドなどもあり、充実していると感じた。中でも、サトウの 刀という短刀が展示されていた。オレゴンのポートランドで会ったサトウ氏から送られたと説明があった。


この展示の中で、素晴らしい絵に出会った。受付で聞くと、Maud Gonne の娘であるというが、原画はどこにある かわからないので、国立美術館に言ったらどうかという。国立美術館には、行くつもりはなかったが、こういう経緯 で行くことになった。

Gonne の娘(Iseult Gonne)の絵は、30 歳過ぎの絵ならある(展示はしていないが)とのことだったが、私が探し ている若いころの絵は、どこにあるか国立美術館でも結局わからなかった。これである。

いずれに日にか、お目にかかりたいのもだ。余談だが、お目にかかりたい絵はもう一つあって、これは所在が分かっ ている。ルノワール「少女イレーヌ」で、チュウリッヒにある。ついでに、美術館を回ってみた。WB の弟、Jack Yeats の絵は三枚あったものの、ほかには大した絵はなく、美術館としては、ちょっと貧弱という印象である。
明日の出発準備のため、閉館と同時に引揚げる。

7/20 Saturday 帰米

こんな小さな国だとは思わなかった。

アメリカで、アイリッシュに会う機会が多い。現に去る五月、私達の娘が結婚した相手の母親の一族はアイリッシ ュである。一度感謝祭に呼ばれたが、ペンシルバニアの田舎町の大きな邸宅に、後から後から親族がやってきて 紹介される。全部で 80 人もいただろうか。仕事でも、私生活でもアイリッシュに会わない日はないと言っても過 言ではない。クリントン、レーガン、ケネディーなど名だたる大統領を 13 人も出している。こんなにも多くのアイリッ シュがいるのだったら、元の国、アイルランドは大きな国なんだろうと勝手に思っていた。

ところが、実際に来てみた驚いた。国土の東西を端から端まで汽車で 50-80 kmぐらいで走って三時間で着いて しまう。南北の線路はないが、もしあれば四時間程度ではないか。

今、ダブリンから Newark へ向かう、ユナイテッド B787 の機上である。離陸後、一時間もたっていないのにアイル ランドを横切って大西洋上に出てしまっている。しかも、このフライトは、アメリカの国内便である。つまり、入国審 査、通関などは、ダブリンで済ませている。(カナダからのフライトも同様にアメリカ国内便)考えてみると、北海道 と同じぐらいの面積しかない島が、アイルランドという国なのである。人口は北もあわせて 640 万人といわれてい る。北海道の人口は 530 万人だが、大雪山系などの山地が多いので北海道のほうがせせこましいであろう。

そんな北海道と同じぐらいの小さな国が、1847 年の大飢饉に耐え、クロムウェルの虐殺・残虐行為などをはじめ とする度重なる英国の侵略と弾圧に抵抗し、多くの国民がアメリカにのがれ、いまやそれらの移民がアメリカを席 捲してしまっているのである。

その強さの秘密はどこにあるのだろうか。紀元前 4 世紀ごろに、ケルト人がやってきて、その後は、バイキング、ノ ルマンなどが来て混じったものと思われるが、どうしてここまで強くなれたのか。カトリックの伝来が 5 世紀とあるが、 早い方ではない。土地の宗教と混じって早く普及したとのことだが、それが強さの秘密なのか。
英国はアイルランド島内に、プロテスタントを増やし、カトリックを駆逐する策もとった。カトリック信者は一人前に 扱ってもらえなかったという。こういう弾圧が、アイリッシュを強くしていったのだろうか。アイルランド語(ゲール語)と 英語の 2 か国語を徹底して進めているのも感心する。学校でも二か国語必修である。どこへ行っても、表示は 二か国語でなされている。カナダが、英仏二か国語で表示しているように。これが強さの秘密だろうか。

気候なのだろうか。確かに夏は平均最高温度摂氏 20 度前後で、我々には寒く感じるし、冬は凍らないし雪も 降らないそうだから、摂氏一桁を維持しているのであろう。これだと寒くない。耕地が多いのは確か。雨がよく降る ので、牧草とか穀物野菜は育ちやすいだろう。これは強みかもしれない。水量と温度が不足するので、稲は育た ないだろう。NJ へ帰ったら、司馬遼太郎の愛蘭土紀行をぜひ読まなければならない。何が彼らを強くしたか。こ れは課題として、今後も調べ、考えてていきたい。

次に特筆すべきは、彼らが英語を話すという事である。勿論、アメリカ英語がそのまま通用はしないが、彼らの訛 りがきつくてわからない単語が出てくれば、聞けば説明してくれる。私は、ヨーロッパへ来ているのに、ヨーロッパに 来た気がしない。それは、英語が通じる気安さがあるからだと思う。

更に特筆すべきは、私の英国観が変わったことである。英国は紳士の国と中学から習っていた。当時の中学部 長(関西学院中学部という中学だったので、トップは中学部長)矢内正一先生は、「見よ、イートンを、見よ、ラ グビーを」と言って、イギリスの全寮制の男子校を礼賛、紳士になりなさいという教育をして下さった。私がビジネ スでお付き合いした英国人は、皆さん確かに紳士だった。だから、イギリス人は皆紳士だと思っていたが、どうやら それは一面にすぎないことが分かった。アイルランドに対する弾圧、詐取、宗教への介入、残虐行為などは、紳 士の行為ではない。

Brexit に直面して別の話をしたい。これからのアイルランドは貴重な存在になる。Brexit によって、EU 内で英語 を主要言語とする国は、アイルランドだけになる。ユーロが通じるのも便利である。英国は EU のメンバーでありな がら、最後までユーロを導入しなかった、とても我儘な国である。考えてみれば、今の Brexit そのものが、我儘 である。EU に加盟するからには、我儘ばかり言っては、お付き合いいたしかねるというのが、他の加盟国の本音 であろう。主権を取り戻したいというなら、勝手にすればいいと誰しも思うであろう。

アイルランド西海岸のシャノンには、アメリカ東海岸から五時間で着く。五時間の飛行と言うのは、アメリカ人にと っては、東海岸から西海岸に行く時間と同じである。国内並みの時間で行けることから、シャノンには、米系企 業が多数移入してきているとの事である。

ダブリンも負けていない。ダブリンで7月 3 日に最初に泊まったホテルは、Ballsbridge というエリアにあった。今住 んでいる Ridgewood, NJ みたいなとても感じのいい地域で、住むのにもいいと思った。歩いているうちに IBM アイ ルランドに出くわした。3 階建てのおとなしい造りだが、さすが、IBM だなあ、地域を見る目があると思った。このあ たり、高いクレーンがあちこちに立っていて、建築ラッシュなのをうかがわせる。また、ダブリン市内のリフィ川の下流、 Dart の線から東側には、それこそクレーンが林立している。

かくて、私のアイルランド紀行は終わった。小柄なアイルランド人には、とても親しみが持てるようになった。彼らか ら学ばねばならない点は多い。これからも、学んでいこうと思う。

明日は、紀伊国屋に電話して、司馬遼太郎の愛蘭土紀行があるか聞いてみよう。なければ、日本から取り寄 せようと思う。アイルランド人の強さを、彼ならうまく説明してくれるかもしれない。彼が、アメリカのアイリッシュを十 分知っておればいいのだが。 完

コンサート(7/12)の録音。

http://davidsnowmusic.org/album/audio_a_viva_voce_20190712.html