2021年9月11日(土)その2
これは、先日徳島新聞に送った原稿です。
「911当日は、よく晴れた日で、会社への出勤途上の車中で聞いていたカーラジオから、「今、小型飛行機がWorld Trade Center(以下WTC)にぶつかったようだ」という一報を聞きました。確か朝の8時43分位ではなかったかと思います。それから会社に着くと騒然としていて、「WTCに飛行機が突っ込んだ」という情報となり、それからはワシントンDCとペンシルバニア州にも飛行機による攻撃があったということが明らかとなり、テレビに釘付けになってしまいました。そのうち、WTCのもう一つのタワーにも突っ込みました。
昼食時、会社の顧問弁護士(日本人女性)から電話があり、「今、船で子供とNJに向かっているので、迎えに来てほしい」とのことで、とるものもとりあえず車に乗り、船が着く予定の Liberty State Park (自由の女神のNJ側にある州立公園)に向かいました。
ところが、連邦ハイウェイは通行止めになっていて、地道で向かいますが、皆さん地道に降りたので道路が全然動かないのです。普通40分位で行けるところ、3時間以上かかって公園につき、無事弁護士先生とお子様二人に会えました。取り敢えず小生の自宅に案内し、WTC崩壊の噴煙の中をお子様に手をひいて走ったなどという生々しいお話を聞きました。ご主人の行方が分からないので、とりあえずその晩は、近所のホテルでお過ごしいただきました。翌日ご主人から連絡が入り、家族が揃ったので、とりあえず安堵しました。」
この弁護士先生に徳島新聞のコピーを送ったら、すぐに返事があった。
「西谷さん
大変ご無沙汰しております。先日のハリケーンIdaでRidgewood辺りも被害があったという報道を見て、どうしていらっしゃるかと思ったのでお元気そうで何よりです。
本当に20年も経ってしまったなんて信じられないような、あれはもっと昔の出来事だったような不思議な気持ちです。あの時の「幼子」は後数日で24歳。昨年コロナの真っ最中に卒業式なく大学を終え、今はロスアンゼルス郊外でエンジニアとして働いています。20年前には家族ともども西谷さんに救助していただき、改めて本当にありがとうございました。
知り合いと当時の話をするときには、必ず西谷さんの車に乗るなり(名前略)がいただいたリンゴ少しかじって寝てしまったこと、夫もHobokenでピックアップしていただき温かいおうどんを食べさせてもらったこと、そしてK-Martで身の回り品を買って、(名前略)さんが必至で見つけてくださったホテルに連れて言ってくださったことなどを話します。いつも「そういうお知り合いがいて本当に良かったですね」と言われます。そうじゃなかったらどうなっていただろうと、今考えても怖くなります。
その20周年ですが、私は夫と東京で迎えています。今年の2月から(弁護士事務所名略)東京オフィスのマネージングパートナーになり、6月中旬に「逆駐在」で帰国しました。任期は2年なので2023年の夏にはニューヨークオフィスに戻ります。Battery Park Cityのアパートには、あの日一人マンハッタンに取り残された娘が住んでおり、ロックフェラーセンターの(名称略)に通勤しています。アフガン撤退後の今、家族やあの瞬間を共有した友人たちは、皆複雑な気持ちで20周年を迎えているようです。日本の距離感のある冷めた報道に接していると、さらに複雑さが増幅してしまいます。
日米間を自由に行き来できるようになるまでにはまだしばらく時間がかかりそうですが、規制解除になれば逆駐在中もしばしばニューヨークにも出張です。いつかアメリカか日本でゆっくりお話し出来る時があればと思います。デルタ株などの変異種が今後どうなるか予断を許しませんが、どうぞくれぐれもお体に気を付けてお過ごしください。(署名略)」
私からの返事:
「東京駐在とはすばらしい!
コロナが明けたらまずフランス・スペインの巡礼(大体1600㎞、100日ぐらいかかります。南仏アルルからToulouse、ソンボルト峠からスペインに入り、ブルゴス、レオンなどを経てサンチアゴにつきます。2013年に事故がなければ(その節はお世話になりました)Toulouse 以後の1200㎞が歩けたのですが、その後2015年にはフランス国境から800㎞は歩きました。)に行って、その次に四国108ヶ所を歩く予定です。88ヶ所は二回歩きましたので、2023年は傘寿記念に別格霊場20ヶ寺を加えて108ヶ寺を歩く予定です。東京かNYでぜひお会いしたいです。長男晃一(MIT出身)が箱崎の日本IBMに勤めていて、武蔵野市に住んでいます。WTC跡地の二条の光のタワーが今年も夜空に向かって延々と伸びています。この写真は、2019年にGovernor’s Island より撮影しました。ますますのご活躍を祈念しています。西谷」
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綛谷さん(NY在住同窓生)のFB投稿
綛谷 昌生
9月11日 20:45 ·
9・11 私の記憶
20年経ちました。
あの日、1機目が1 WTCに突っ込んだ時刻、私は当時Grand Central Terminalの前のVanderbilt Aveにあったオフィスから出てLexington Aveを歩いてました。
前日に日本から関係会社の出張者8人が商業施設視察のためにNYマンハッタンに入っており、午前9時に視察に出発するんに合わせ彼らが投宿するホテルに向かってました。
この時点でテロに関する情報は全く有らへんかったね、、、それでチャーターした車に乗って予定してたNJのショッピングセンターに行くべくリンカーントンネルへ。 そしたらトンネルは封鎖され、その時にオフィスの同僚から電話が入り、それによると『WTCにセスナ機が操縦を誤って突っ込んでしもうたらしい・・・』とのことやったんです。 何やアホな奴おるな、などと車内で冗談を言いながらラジオを付けたら、『2機目が2 WTCに突っ込んだ、そしてペンタゴンにも突っ込んだ、これはテロや‼️』っちゅうことを言うてるんを聴き、そこで初めて事態の大きさを理解しました。
ホテルに戻る時に通った自動車専用道路の路肩には何台もの車が乗り捨てられてました、、、後で知ったんやけどね、郊外に住んでた警官OB、消防士OBがWTCに向かうために乗って来た車やったんです。渋滞してる中、車を乗り捨ててテロ現場に向かうたんです。
さて、このテロが起こって最初の様子伺いの連絡は日本の叔父からの電話でした。
『おい、NYえらいことになってるけど、お前大丈夫か⁉』っちゅうのが最初の電話やった。
日本の本社からは全く連絡は有りません、、、何時間もしてから漸く連絡が有った時に言われたんはね、『出張者8人を一刻も早う日本に帰らしてくれ』っちゅうことやったんです。 お前大丈夫か? 家族は大丈夫か? 家族を安全なところに逃がしなさい、っちゅうような言葉は一切あらへんかったね。
この時の教訓は、『自分の身は自分で守らなあかん‼️』っちゅうことやった。会社の命を受けて駐在してるはずやねんけど、いざという時の会社の対応がようわかりました。
早う日本に帰してくれと本社から言われたんやけど、当の出張者の何人かは、『NY 以外やったら何処か視察出来るんちゃうん?』などと呑気なことを言い出す始末、私は頭に来て『ほんまにシリアスなことが起こったんです‼️ 早う無事に日本に帰ってもらわんとあかんのです‼️‼️』と声を荒げました。
まず私がやったんはね、出張者全員をマンハッタンのホテルからJFK空港のホテルに移動させることでした。
空港はテロ発生と同時に封鎖・閉鎖されててね、飛行機がいつ飛ぶかはわからへん状況でした。
日本航空のNY事務所に知り合いがいて、その人から情報をもらってました。
JFK空港には日本航空と全日空の飛行機が1機ずつ駐機していて空港が開き次第離陸準備に取り掛かること、さらに日本航空機が優先的に飛ぶ、っちゅうことを聞きました。
そしてちょっと記憶が定かやないんやけど、テロ発生3日後の金曜日やったかな、『明日、成田行きの1番機が飛ぶ』っちゅう電話をもらいました。 そして1番機は臨時便扱いで先着順にお客さんを乗せるから出来るだけ早うにJFK空港のJALカウンターに行って並んで、と教えてもらいました。
早速空港近所のホテルに泊まってる出張者の代表者に連絡を入れ、明朝一番に空港内のJALカウンターに行き並んで欲しいと伝えました。翌朝、私はマンハッタンの日本航空オフィスに赴き、日本へのチケットを購入し空港へ急行しました。
情報を貰うてたお蔭で出張者8人はカウンターの最前列に並んでました。
そして夕方、1番機にて全員無事に飛び立っていきました。
ところでこの日、JALカウンターの前で待ってる時、こんなこともありましてん。
何かスタッフと揉めてる人がおるな、っちゅうて事の成り行きを見てたらね、こんなやりとりしてますねん。
その人は、自分はビジネス席を予約してたのにエコノミーをあてがわれてる、とゴネてます。
カウンタースタッフが、臨時便やから予約は関係ないっちゅうても聞き入れず、ビジネス席やないと乗らへん‼️っちゅうて怒鳴り出しましてん。 そのおっさんのお付きと思しき若い人は困惑し、どうかエコノミーでも乗って帰って欲しいと懇願してるんやけど、ビジネスしか乗らんの一点張りや。
空港には一刻も早う帰りたい人らが行列作って待ってるのにね、、、。
その後、このおっさんが乗ったんか乗らへんかったんかは知らんけど。
20年前はこんなんやったなあと思い出してます。。。
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Momoko Gresham さん(旧知の音楽家)のFB投稿
Momoko Gresham
9月9日 17:27 ·
「9.11 」
9月10日の夜ニューヨーク郊外で生徒達のレッスンを終わる頃から外はクイーンズのアパートまで帰るのが心配になる程の凄い嵐になって来た。その夜無事帰宅。
9月11日の朝、ラジオのニュースで驚いて飛び起きる!直様テレビをつけた。
ダンナ様は、アパートの外へ出て2ブロック先の地下鉄の駅まで行ってイーストリバーを挟んで見えるマンハッタンに聳えるツインタワーのその信じられない光景を目にした。私は多くの人がそうであった様にテレビの画面を見続けながら只々茫然。でもふと、、その日仕事の面接のアポが入っていた事を思い出すが電話は繋がらない。
暫くして、私も外へ出てみた。私の頭上に広がる雲ひとつない澄み切った青空が本当に美しくその青空の広がる向こうで悲惨な事が起こってしまった現実を受け入れ難かった。
この日から辛い辛い日々がずっと続いた。仕事で毎日マンハッタンへ行く為グランドセントラル駅構内を通るが、そこを通るのが辛い。構内中、被害に遭われたであろう人達の数え切れない程のmissing の張り紙で埋め尽くされていた。勿論マンハッタンの町中のあらゆる所にもそれらは貼られていた。
私達が住んでいたクイーンズは空港に近かったので、よく飛行機が頭上を低飛行で飛んで行く。それがまた恐怖。そして、川隔てたクイーンズまであれから何ヶ月もビルが焼ける匂いが無くならなかった。
そしてこの区域は色々な人種が多く住んでいて、あの日以来アラブ系の女性は外では見かけなくなったし、矢張りアラブ系のお店のドアにアメリカの国旗を掲げる所が多くなった。
突然、私の所に日本からたまたま来ていたという、ちょっとだけ知り合いの朝Oテレビ局の記者から電話が掛かって来た。「どなたか被害に遭われたお知り合いを知っていますか?」「アラブ系の人たちが住んでいる場所を知っていますか?取材したいんですが」と。。。「知りません」と答える。
その後、アフガニスタン侵攻、イラク戦争とアメリカが推し進めて行く中、マンハッタン市内をお腹の中のシドと共にイラク戦争反対のデモに参加。願い虚しくアメリカはイラク戦争へ突入。
シドが産まれて3ヶ月でダンナ様の大学の仕事でイリノイ州に引っ越した。
そこで友達になったアメリカ人のママ友に、9/11の事を訊かれた時、その彼女が「ここは大都会から離れているし小さな町だから安全よ」と言った。。。
広いアメリカ、そう思う人も居るだろうとは想像していたけれど。
ある数年前の出来事、テロが盛んに起こって日本人のジャーナリスト達も被害に遭ったあの頃。クリスマス1週間前に起こったある出来事は本当に恐怖だった。
ある日、私は夢を見た。それが、うちの教会に若い男性が現れそれがテロリストだったという夢。現実離れしている夢だと思って次の日ダンナさんに「こんな夢を見ちゃったけど、まさかこんな小さな町のこんな小さな教会に来てもね〜」っと笑い飛ばしていた。
その3日後の日曜日。教会に現れたのです。信じられない様な話です。
ここではあまりに怖いのでこの騒動の詳しい事は書きませんが、その人の持つ非常に強い怒りと憎しみに満ちている思想とこんなにも人間の温かさを感じない無機質な目を見た事はなかったという事が忘れられません。
アメリカ人を憎み、クリスチャンを憎み、そんな人間を目の当たりに見てしまったと言う現実でした。
9.11から20年。今回のアフガン撤退の大失策によりこれらの記憶が蘇って来た。何が正義か悪か、メディアが伝えているものが一体どこまで正確なのか?よく分かりません。
只々、憎しみのない平和な世界を祈るだけです。
Photo : 私達の住んでいた2ブロック先のクイーンズの地下鉄の駅から
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加茂 遥南 グローリア
9月11日 18:42 ·
I will never forget the news I saw when I was 4 years old on this day in the US. I couldn’t believe my eyes. It has not a little influenced my life and I want people to know about this incident so that it will never happen again. My heart goes out to the families and victims of 9/11. I pray for world peace.
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Yoshi Oshimizuさんが過去の思い出をシェアしました。
9月11日 10:42 ·
It is beautiful day like 20 years ago.
9年前
この日の思い出を見る
Yoshi Oshimizu
2012年9月11日 ·
怪我をして、治って、毎日の生活にはなんの支障もない。でも、傷跡は目に入るところに残っている。普段忘れているけれども、その瞬間や翌朝や、その後数ヶ月の眼下の瓦礫の様子をいつでも思い出すことができる。毎年9月11日に思うこと。でも、こんなことは口には出さない。皆同じなのかも。職場にも多くの実際に崩壊したビルから避難した者がいる。でも、今日も静かに普段と何も変わらない。
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中澤 利彦
9月10日 21:15 ·
Today is the 20th anniversary of 9/11.
Never forgotten.
2001年9月11日
20年前
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Shizuko Kato
9月11日 7:47 ·
7:45 AM September 11, 2021
Looking back 20 years ago.
0:00 / 0:16
コメント5件
海老沼 彩花
とても美しいです。
平和なNYのシーンですね〜
· 返信する · 2日
Shizuko Kato
Saika Ebinuma さん、
あの日も今日と同じように上空はスッキリした9月の青空でした。この朝は中国から輸入の海苔の積み込まれた30フィートコンテを受けとるのでいつもより早く出勤しています。
ブルックリンブリッジを渡り終えマンハッタンサイドの橋のたもとの信号待ちにタワーワンに飛行機🛩✈️突入に出会しました。
今日は間もなくメモリアルセレモニーが始まります。🙏
· 返信する · 2日
海老沼 彩花
Shizuko Kato 様
あの日の出来事が、、遠くになって来ましたね〜
平和なNYの写真に色々と思い出します。
· 返信する · 2日
Fusako Ota
日本でも一日中多発テロの映画、ドキュメンタリー、にどっぷりです。じわーと肌に感じられます。黙祷
National anthem performed at the NYSE for the 9/11 commemoration
https://www.youtube.com/watch?v=YrtSN58NUvQ
Guards at Windsor Castle play the national anthem to mark the 20th anniversary of the 9/11 attacks
https://www.youtube.com/watch?v=P8hEzsKn954
Céline Dion – God Bless America – 9/11 Tribute (4K AI)
https://www.youtube.com/watch?v=kyFqGdMhGwg