コンテンツへスキップ

2020年9月26日(土)父の日誌

2020年9月26日(土)
今日からしばらくの間、晴れた日が少ないとの予報。今日も黙々と片づけをする。亡父の農業日誌が出てきた。家は次男が継いでいるので、長男の私になぜこの日誌が送られてきたのかよくわからない。1974年から毎年一冊ずつ書いて、亡くなった2004年まで(うち平成6年7年がない)29冊があるのに行き当たった。日記を書きだした1974年には61歳、私の今の歳よりもずっと若い。1981年7月28日から9月1日まで、二回目に我々に会いにNJに来た時の日誌は別冊になっている。亡くなった2004年のを見てみると、ブランクになっている日が多い。私は危篤の知らせをNJの会社で受け取った。とるものもとりあえず、JFK-NRT-HND-徳島のチケットを手配し、(当時はJFK-HNDはなかった)飛行機を乗り継いで、夜の10時ごろ徳島県牟岐町海部病院に着いた。まだ息があったので、一旦帰宅してまどろんだら、明け方病院から臨終の知らせが来た。葬儀には当時東京に居た私の長男の晃一も参加してくれた。大正二年(1913)生まれ、享年91歳、子が4人、孫8人、曾孫8人。帝国陸軍砲兵曹長、金鵄勲章。晩年は高血圧、糖尿、狭心症と戦っていた。
私には、子供が親元を離れて暮らしているのは自然であり、喜ばしいことなのであるが、亡父にしてみれば、アメリカなどの遠隔地に子供を送った会社を恨むと漏れ聞いたことがある。大正人には、親、子、孫が同じ家に暮らすのが自然なのだろう。同じ家ではなくとも、よべば応えるぐらいのところにいてほしかったのだろう。私の子供の時には、曾祖母、祖父母、父母、兄弟が同じ家で暮らし、農繁期には家族総出、場合によっては親戚の手も借りて田植えとか稲刈りをした。まして、私は長男でありながら月給取りになり、農業、林業もせず、家も継がずに遠隔の地で暮らしている。そういう意味で、父から見れば私は不孝者とは言えないまでも、孝行を尽くしたともいえまい。救いは、アメリカという国は、生まれ故郷を出てきた人たちが作った国であり、みんな多かれ少なかれ生まれ故郷に対する複雑な思いを持っていることである。これから折に触れて父の農業日誌を読ませてもらおう。功徳になるだろう。

綛谷君のFB投稿
https://www.facebook.com/kasetani.masaki/posts/10220442091695077

NBC Nightly News
https://www.youtube.com/watch?v=0pozaL2t2YA

今日の一曲 アイヌのウポポ 新月会(関西学院グリークラブOB)2017/7/23.
https://www.youtube.com/watch?v=zGX9aMZPojY
私も、中高はグリークラブで歌っていたので、ここで指揮をしていらっしゃる廣瀬副会長に会員にして頂きました。敬意を表して掲載します。

Subscribe
Notify of
guest

CAPTCHA


0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments
0
Would love your thoughts, please comment.x
()
x