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2022.0916.(Fri) Camino whole story ( in Japanese)

カミノ・デ・サンティアゴ100日巡礼 (6/1-9/8/2022) 報告
ハリー西谷
はじめに
Camino はスペイン語で「道」という意味です。SantiagoはSaint(聖)Iago(ヤコブ)のことです。すなわちキリストの12使徒の一人である、ヤコブが最初の殉教者となり、当時殉教者は列聖されて聖ヤコブSant Iagoとなりました。Compostelaは、造語でCampo(野原)Stella(星)、つまり「星の野原」に聖ヤコブの遺骸が発見され、そこに教会を建てたのが、現在スペイン北西部にあるSantiago de Compostela という説が有力です。(諸説あります。)巡礼が終わると巡礼証明書がもらえます。この巡礼証明書もCompostela とよばれています。巡礼の歴史などの詳細については、https://camino-de-santiago.jp/go-santiago/about-santiago を参照ください。
生家が四国88ヶ所の巡礼道に面していましたので、幼少の頃より巡礼を見て育ちました。見ていたばかりでなく、門前で般若心経をあげる巡礼に、ご報謝をあげるのは、幼い私の役目でした。当時は、一握りのお米をあげるのが、ご報謝でした。なぜ、私の役目になったかと言いますと、幼児は手が小さいからです。成人すると、四国88ヶ所を回るのが、家のしきたりでした。私の場合、成人した後すぐに海外駐在に出ましたので、2003年に定年になってから、1200kmを全部歩いて回りました。2018年に渡米50年記念の際にも歩いて回りました。
私のカミノはこれで三回目です。一回目は古希記念として2013年5月17日、トゥールーズを出発、5月26日にはピレネー連山がきれいに見えるMarciacの手前まで来ましたが、ここで車にはねられ救急車でAuchの病院に入院、左上腕骨折で手術を受け、やむなく帰米しました。フランスはしばらく置いて、スペイン国内「フランス人の道」をまず歩き、サンティアゴに行こうと、2015年5月14日、フランス/スペイン国境のSaint Jean Pied de Portを出発、6/28に無事サンティアゴにて結願しました。
さて、3回目の今回、5月28日、イベリア航空でパリに着陸、そこからTGVで南仏のアルルに着きました。2日間準備をして、6月1日に一歩を踏み出しました。ところが、予期せぬ熱波で熱中症にかかり、20.9㎞の行程で最後の900mが歩けなくなり、立往生してしまいました。親切な人が車で宿まで送ってくれましたので事なきを得ましたが、この出来事より、一日20㎞以上は、なるべく歩かない方がいいこと、水をNJでの倍以上、3.5Lを持つことなどを学びました。
今回の計画では、5/29から9/10まで全期間宿を予約しており、途中で計画に無い休みを取る事は出来ませんでした。6/1から9/8の間、行動日85日、休養日15日、計100日なのですが、計算上は1600/85=18.8で20㎞以下に収まります。しかし、計算通りに宿があるとは限りません。現実は半数の42日が一日20㎞以上を歩く計画とせざるを得ませんでした。このうち、計画通りに20㎞以上歩けたのは10日間で、あとの32日は躊躇なく一部の距離を乗り物に乗りました。こうすることで、加齢とコロナによる体力の衰えに起因する致命的な大事故を防げたと思います。

第一部 カミノ・デ・サンティアゴ100日巡礼 フランスの部
第一章 私のフランス、私の「アルルの道」
2000年前、ローマ人、ユリウス・カエサルがアルプスを越えて当時ガリアと呼ばれていたフランスに遠征し、ローマに服従しない部族はライン川の彼方に追いやって、服従するものはローマまたはラテンの市民権を与えられました。それ以来、Pax Romana(ローマによる平和)に組み込まれ、外敵の心配がない状態で生産にいそしむことができたのは、まことに幸運であったと思います。また、地形的にも南東側はアルプス、南西側はピレネーの間で、温暖な気候にめぐまれ、地震、台風、洪水などの危険もほとんどなく、しかも人が生きていくうえで必要なものが揃っているというまことに恵まれた土地だと思います。アルルの道の呼び名はVia Arles、Via Torosana、 GR-653など名前は種々ありますが、通常南仏のアルルからピレネー山脈、ソンポート峠の間の約790㎞をさします。主要な通過地は、Montpellier、 Castes、 Toulouse、 Auch、 Orolon Saint Marieなどです。ここを歩きながら、フランス人はなんと幸せな人たちなのかと思いました。それは、地味の肥えた大地と、ピレネー、中央高地、それにアルプスから流れ出る河川によって潤され、豊富な食糧が生産されているからです。ラテン系3国(イタリア、フランス、スペイン)の中では、最も富んでいる国でしょう。

第二章 ローヌ川流域から中央高地へ 6/1-6/20
さて、予定通り6月1日、アルルの町にあるローマ時代の墓地、アリスカン墓地にあるアルルの道の起点から出発しました。アルルからモンピエまでの一週間ほどは、基本的にはローヌ川によるデルタの上を歩きますので、平地です。中都会のアルル(人口5万人)大都会のモンペリエ(人口28万人)の間に人口数千人ぐらいの村が点在していて、軽工業、運輸業などの商業地域と、ブドウ、野菜、小麦などの畑が主な土地利用となっていると見受けました。それから、2週間ほどをかけて中央高地の山々を越えます。モンピエMontpellierは、ローヌ川流域にあり、カストレCastresはガロンヌ川流域にあります。両者の間には、1000m前後の低い山塊、Massif Central、 中央高地があり、これの南端の1000m程度の山々を超えていきます。高地といっても、最高点が1019mなので大した高さではなく、急峻でもないので、ほとんどが耕地として作物が作られています。山襞から流れる川に沿って村が点在し、流域をまたぐ際には山越え、峠越えをします。つまり、このモンペリエとカストレ間は登ったり下ったりの連続です。

第三章 ガロンヌ川流域 6/21-7/13
これまでモンピエから二週間かけて越えてきた中央高地は、カストレで終わります。これから西のToulouse にかけて、ガロンヌ川の支流、ターンTarn川にそって、緩やかに下って行きます。Avignonet-Lauragaisでミディ運河に出会い、トウルーズToulouse近郊では運河に沿って歩きますが、運河ができるほど高低差が少ないと言えます。トウルーズ を起点とするミディ運河は大西洋と地中海を結んでおり、文化遺産として1996年に世界遺産に登録されています。17世紀の完成当時は、動力を持たない船舶を人や馬が引くために運河の両側につけられた道には、日差しを遮るために45,000本ものプラタナスや糸杉が植えられており、心地よい水辺の散歩道となっています。ガロンヌ川にはトウルーズで出会います。エアバスの工場があり、人々の顔も晴れやかで明るい、気持ちのいい街です。トウルーズから先、150㎞ほどで2013年の交通事故現場です。今回はこの場所を再確認して先に進みました。ピレネーが近くなると、きれいな山並みが見えてきます。ピレネーの玄関口と言われるポーPauに近づくと、ピレネーの登り口も近くなります。カストレからポーまでは約3週間、豊饒な農地がずっと続いていました。これは、耕地の少ない日本で育った者には、とても羨ましく、フランスの食糧自給率100%というのも、十分うなづける景色でした。それに引き換え、日本の食料自給率はわずか40%と言われており、食料の大部分を輸入に頼っている日本は、国家として致命的欠陥があるのではないかと憂慮します。そして、ほとんどの国民がそのような危機的状態を知らないと思います。

第4章 ピレネー越え ソンポート峠への登り 7/13-7/18
ガロンヌ川平野が終わると、ピレネー山脈をこえるための峠の登りにかかります。ポーの標高は224mですが、ピレネーを横断するソンポート峠の頂上は1636mで、標高差1412mです。 このうち最後の2日で1169mを登りますので、それ以前の4日間はそれまでの平地歩きとそんなに変わらないと言えます。峠までの道は昔からの往還なので、よくできていましたが、氷河で削られたであろう谷の部分は、人道を作る余裕がなかったと見えて一部車道を歩きました。私は、かねてより、ピレネー越えの鉄道に大変興味を持っています。日本語ウイキペディアによれば、「1915年にはソンポート峠にソンポート鉄道トンネルが掘られ、1928年にはスペインのカンフランクとフランスのポーを結ぶポー/カンフランク鉄道が開通した。貨物列車による事故が起こったため、この鉄道路線は1970年3月27日に運行を休止している。」とあり、つい最近、50年ほど前までは鉄道が通じていたのです。また、Guradian紙7/19/2021によれば、「フランスとスペインは、二国を繋ぐ7.8㎞のソンポート・トンネルの再開に向けて作業をすることに2020年に合意した。EUの支持を得てカンフランク・ラインと駅は2026年までに全面的に操業を開始すると希望されている。」 とあり、今後の進捗がとても楽しみです。
フランス最後の日、7月18日にはユルドスUrdosの村から800mばかり登ってついに峠に着きました。周りには美しいピレネー連峰が見えて、とても幸せでした。

第2部 カミノ・デ・サンティアゴ100日巡礼 スペインの部
第1章 私のスペイン
「ヨーロッパと呼んでいいのはピレネー山脈まで」とルイ16世に言われ、「ピレネーを越えるとそこはアフリカだった」と ナポレオンに言われたように、ピレネーを超えると、景色は一変します。フランスでは緑が主体だった景観は、峠からは、茶色が主体となります。スペインは、大部分が乾燥地帯なのです。勿論、草木が生えているところもあります。計画的に植林をしているところもたまに見かけますが、背が低く雑木といった感じの樹が生えているか、木がなく草しか生えていない土地が多いです。農業も、機械化、自動化されていると思える箇所は非常に少ないです。これでは、人口は47百万人からあまり増えていかないと思われます。ピレネーを挟んだ、この大きな落差は大きな驚きでした。スペインが過去に海外で征服をしていったのは、本国の土地がやせているのが動機になったのではないかと思わせるような落差でした。こういう驚きは、歩いているからこそわかるもので、観光旅行ではまず体験できないと思います。

歩く、
一歩ごとに変わる景色、
この角を曲がれば何があるのだろうか、
あの坂の上まで登れば何が見えるのだろうか、
最良、最善の旅は徒歩。

というのが、私の「旅信条」です。

第2章 アラゴンの道 7/19―7/28 荒れたカミノ
出発から48日目の7月18日にソンポート峠を越えました。峠からは、黄色の矢印が巡礼を導いてくれます。この矢印は、巡礼が道に迷わないようにと、オセブレイロという山上の人口60人の村の神父さんが矢印をつける運動をなさったおかげで、私どもは迷わずに済んでいます。
峠を越えたカミノは、旧アラゴン王国の中を通るので、アラゴンの道と呼ばれています。アラゴン王国は、一時はカタルニアと連合して隆盛になり、ナポリ、シシリアを領有するほどになりました。6/26にフランスのモンジスカルMontgiscardで夕食をご馳走してくれた英国人の4人グループは、アラゴンの名を聞いたら英国国教会の成り立ちを思い出すと言っていました。英国王ヘンリー8世が、16世紀前半、男子の生まれない王妃キャサリン・オブ・アラゴンを離婚しようと、ローマ教皇に許可を求めますが拒否されます。それならとヘンリー8世は別の教会を作りました。それが今の英国国教会です。トウルーズからポーまではほぼ西に向かっていたカミノは、ピレネー越えの為に南に方角を変えます。ソンポート峠を越えた南麓のJacaからまた西に向きを変え、峠から170kmでフランス人の道に合流します。
アラゴンの道は、同じスペインの中でも、インフラの面でフランス人の道と大きく異なります。特に、前半のJaca-Unduezの間は宿場と宿場の間の距離が長いこと、宿場の中の宿の数が少ない事、コロナによる宿の休業、廃業があった事、宿場と宿場の間には、店とか食堂、水場などは全然ないこと、巡礼の人数が少ないこと、民家の無い所が多い事、カミノのメンテナンスがよくない事が特徴です。 これでは、途中で事故が起こると助けてもらえないリスクがあります。 特に私の場合、加齢により足が遅くなっており、たとえば巡礼が10人いても、9人は私の先を行くので、10人目の私が事故に遭ったとしても、後から来る巡礼はおりません。 この区間は事故に遭わないように、特に注意して歩きました。

第3章 フランス人の道 ナバラ州 からリオハ州へ7/29-8/8
峠から10日目の7/28に、プエンテ・ラ・レイナ(王妃様の橋)に着きました。早速王妃様の橋に会いに行きました。アルガArga川にかかる優美な姿は、いつ見てもきれいでした。11世紀にナバーラ王妃(サンチョ3世妃ムニアドナ、またはガルシア3世妃エステファニアともいわれる)が、アルガ川を渡るのに巡礼達が難儀しているのをご覧になって、橋の建設を命じたという伝承が残っています。私は、有難く渡らせて頂きました。ここからは、カミノのなかで最も人気があり、最も整備が進んでいる道を歩きます。このあたりのフランス人の道は、アルルの道、アラゴンの道に比べると、巡礼の数が一桁多くなる様に思いました。アルルの道、アラゴンの道は、一日10-20人だったと思いますが、フランス人の道になると、一挙に200-300人ぐらい、しかも、サンチアゴに近づくにつれて、その数は右肩上がりになり、最後の100㎞のSarriaからは、一日千人以上が歩いていると私は感じました。
ここ、プエンタ・ラ・レイナには、アラゴンの道以外にも、フランス人の道が合流しますので、フランス側のSan Jean Pied de Portから歩き始めた人、それ以前のフランスのLe Puy、 Vesley、Parisなどの諸道から来た人、スペイン国内の最初の宿場である、Roncesvallesから歩き始めた人、また交通の便利なPamplonaから歩き始めた人などが泊まりますので、大きな宿場になっています。ここからは、店も水場も整備されて、巡礼の数も多く、宿場と宿場の距離が短いので、昼食も水も、そんなに神経質になる必要もありません。万が一、宿にたどり着けなかったり、事故に遭っても助けてもらえるという安心感があります。これは、気分的にとても楽でした。さらに、ここから先は、7年前2015年に歩いた道なので、どこがよくてどこがよくないかをわきまえて歩くことができました。

第4章 フランス人の道 カスティーリア・レオン州 北メセタ台地を行く 8/9—8/20
8月9日から8月20日、ブルゴスとレオンの間の700m-900mの高原地域を歩きます。ブルゴスもレオンも人口20万人程度の中都会で、華やかな観光地になっていて、どちらも魅力的な町です。一方私は観光が目的ではないので、観光案内的な記述は割愛いたします。ブルゴスBurgosからレオンLeonまでは、ドウロDuoro川流域の北部で、カンタブリア山脈の南麓、北メセタと言われる比較的平坦な地域を東から西へと歩きます。これまでと異なり、起伏は少なくなりますが、全体的に標高が高くなります。カミノが通っている地域の標高は700m-900mの高地ですが、スペインの国土の平均標高は660mで、欧州主要国の間ではスイスに次いで平均標高が高い国なのです。 ブドウは600m以下ではよく見かけましたがここでは姿を消し、小麦、ヒマワリ、トウモロコシなどが穏やかに育っていました。 軽井沢よりも少し低い高原地帯ですから、フランスの標高300m前後の農地のような、豊富な農産物は期待できないと思われます。

第5章 フランス人の道 レオン山地を超える 8/21-8/31 ガリシア州へ
これからの10日余りの間は、Leon山地などの山を越えて歩くことになり、今までの平原歩きとはかなり異なって、起伏の多いカミノになります。スペインのカミノの中での最高地点1505mの鉄の十字架とかガリシア州最初の村で山頂にある村、O Cebreiro 1300mを超えていきます。Loen 820m. 鉄の十字架 1505m, Ponferrada 550m, O Cebreiro 1300m, Triacastera 670mと今までにない登り下りで、熊野古道小辺路ほどではありませんが、それでもカミノにすればきつい箇所と言えます。この下りのおかげで、心配していた腰痛が再発しました。

第6章 カミノ大団円を迎える-最後の100km 9/1-9/8
最後の100㎞を歩けば、コンポステラCompostela、 巡礼証明書がもらえますので、鉄道で来ることができるサリアSarriaから出発する人は大変多いです。特にスペイン人のグループが多く、カミノは縁日の盛り場の様相を呈し、スペイン語が飛び交います。同じ学校の友人たちとか、町内会、何らかの友人たちのグループで話しながら歩くので、とても賑やかです。
長女の尚子がご主人のBarryと共に、最後の100㎞を一緒に歩くために9月1日にサリアの町に来てくれて、9月2日から一緒に歩き始めました。ここから歩くと、100㎞以上になり、巡礼証明書がもらえます。100㎞の標識で3人で写真を撮りました。9月8日には、3人で、サンティアゴに到着し、巡礼証明書と、公式距離証明書をもらいました。翌日正午のミサに出席し、9月10日、サンティアゴ発マドリッド経由のイベリア航空で帰米しました。

おわりに
幸いにも今回は事故にも遭うことなく、大きな病気も、怪我もなく、最後まで歩き続けることができました。勿論、日射病とか腹痛、腰痛などのため、乗り物の助けを借りた事はありますが、それでも最後まで歩き通せたことは、何物にも代えがたい達成感です。
この、無謀とも思える冒険に送り出してくれた妻、留守を守る妻を支えてくれた娘たちとその夫たち、Facebook Live に参加して下さった友人の皆様、Facebookの投稿を御覧頂いた皆様、反応してくださった皆様、コメントを頂いた皆様、その他の形で応援してくださいました皆様に感謝いたします。

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