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2022.0915.(Thu) Home Camino Summary 4) 随筆集

2022.0915.(Thu)
Was not able to go to the Oratorio rehearsal due to strong jet lag.

Camino Summary 4)
随筆集
随筆1) カミノの宿泊
カミノでは、A)テント泊、B)ジット泊(Fr)またはアルベルゲ泊(Es) C)ホテル泊 の3通りがあります。
A) テント泊: テント、寝具、調理器具を持ちますので、荷物が15㎏以上になります。テント場は、教会なり村役場などが指定してくれます。
B) ジット泊、アルベルゲ泊: 公営と私営があります。寝具は持参ですので、荷物は大体8-10㎏になります。ベッドは大部屋に数台、二段ベッドの場合もあります。シャワーとトイレは共用です。宿泊料は5-10ユーロ、寄付でいい場合もあります。食事は自炊か食堂で食べます。
C) ホテル泊: プライバシーの必要な人はこれを選びます。料金は場所によって異なりますが、30ユーロ以上となります。目的の宿場に必ずしも在るわけではないので、事前の予約が望ましいです。私は、初回以降、ずっとこれで歩いています。

随筆2) オランダ人カップル-噂千里を走る
6/4  Saturaguesの手前で オランダ人カップルに会いました。Villetelleという村で、ピクニックベンチがありました。そこで休んでいましたら、本物の巡礼と思しきカップルがやってきました。背が高く勿論、オランダ人で、数か国語を話すみたいでした。ローマからイタリア・フランス国境まで歩いて、二週間サルデニア島で休養し、アルルからまた歩き始めたとのこと。足が速い人たちでした。不思議なことに、この人たちにはこれから何度かお会いするのですが、この時には知る由もありませんでした。私の1600㎞なんかは、彼らにとっては児戯に等しいものでしょう。徳川時代に、日本は鎖国をしながらも、オランダとは通商していたという理由がなんかわかりそうです。私が先に出発し、丘を登り始めました。丘の頂上で彼らに追い付かれてしまいました。とても早く歩く人たちで、易々と私を抜いていきました。丘の上からの眺めは、とてもきれいでした。7/15 ソンポート峠の登り口、Oloron Sainte Marie で再会しました。道標に沿ってDe Lurbe-Ste. Chiristauの村を抜けると、野中の道になります。しばらく行くと、後ろからくる人たちがいて、振り返ると、一ケ月ほど前に会ったオランダ人のカップルです。再会を喜び合いました。彼らは早く歩くので、間もなく見えなくなりました。7/18にソンポート峠を越えて、アラゴンの道に入ると、カミノのインフラが悪く、宿場も宿も極端に少ななりく、その日にはその村のその宿しか泊るところがない状況なので、幸か不幸かほぼ毎日会うことになりました。Ruesta と Monreale では同じ宿でしたし、Unduez、Izco、 Eunate、Puente la Reinaでは村の中とかカミノ上で会いました。アラゴンの道が終わるPuente la Reinaで、彼らは銀の道にスイッチすると言って、Sevillaに向かいました。64歳と65歳のカップルで、とても行動的で、羨ましかったです。
道中、私のうわさがカミノ仲間にあいだで広まっているのが分かりましたが、ニュースソースはこのオランダ人カップルと判明しました。ある時は、自転車に追い抜かれたのですが、その自転車が引き返してきて、あなたがあの有名な日本人か、それならぜひ写真を撮らせてほしいと言って写真を撮って喜んで先に行きました。途中で呼び止められて写真を撮りたいと言われた回数は数知れす、私が79歳で9/2までは最高齢だったことと、四国遍路の笠を着て歩きましたので、それらも噂の種になりました。(9/3に81歳のおばあさんが現れ、最高齢は譲りました)ニュースの少ないカミノ仲間では、こんなことでも噂千里を走るのです。

7/23、アラゴンの道、ルエスタのアルゲルゲにてオランダ人Ton/Marga夫妻とともに

随筆3) イタリア人
キリスト教第一の聖地は、申すまでもなくエルサレムです。第二の聖地はローマ、第三の聖地は、サンティアゴ・デ・コンポステーラです。第二の聖地ローマから第三の聖地サンティアゴまでを歩く人がいます。アルルの道の起点には、ローマからサンティアゴまで(1560+1364=)2924㎞と書いてあります。
これ以外にも、イタリア各地から歩いてサンティアゴを目指す人は少なくありません。Novara から、Vicenzaから、Monza から、Milanoから、Brasciaからなどという人たちと会いました。彼らは一様に2500㎞前後を2か月強で歩き通す様です。私は1990年から1995年までの4年半、ミラノに駐在し、イタリア語を話せるようになっていたので、彼らとは当然イタリア語で話しました。多くの人はテント泊でしたが、ジット・アルベルゲ泊もいました。テント泊の人は、20kgぐらいを平気で担ぎ、颯爽と歩いていました。とても頼もしく思いました。
例をあげれば、フランスのLodeveに着く日、6月11日ですが、途中Soumontという山の上の村で、若い20歳代のイタリア人男性の巡礼に会いました。Bresciaというミラノとベニスの間にある町から、ずっと野宿で歩いているそうで、荷物は20㎏ぐらいあり、今日までで1000㎞ぐらい歩き、これからサンチアゴまで2500kmぐらい歩く予定との事でした。彼とのイタリア語の会話はとても楽しかったです。
フランスのPau という都会の2日前の7月9日、Lahitteという村の教会前広場でランチをしていると、若い男性の巡礼がやってきました。彼の名はAndreaで22歳、Vicenza(ベニスの近く)の家から5/20に歩き始めたといいます。今まで1500kmを歩いていて、サンチアゴまではあと1000kmほど歩けば着くと言います。今日はMarciacから出発したというので、私の一日半の行程を半日で歩いていることになります。いずれにせよ、素晴らしいスピードです。

7/9 Lahitte村の教会脇で、イタリア人22歳のAndrea君
スペインに入って、フランス人の道で8月3日、Najeraにつく日です。Pavia, Italiaから来たという長身のイタリア人巡礼に追い抜かれましたが、彼は今朝Loglonoから出発したそうです。Loglono-Najerraは29㎞ですから、普通の巡礼なら普通に歩ける距離ではありますが。
このように、主に北イタリアからの巡礼でしたが、2500㎞-3000㎞程度の距離は全く気にしていないようで、とても頼もしく思いました。

随筆4) フランス人
フランス人がフランスの中を巡礼しているのを多く見かけました。それも、巡礼用語でいう、区切り打ち(全部を歩かず、一定区間だけを歩く)が多かったです。フランス中央山地の下り、6/17のAngles、女学生の4人に会いました。この若い女学生方は、フランス人なのですが勿論英語もできます。私と英語で話すときには、当然ですが、声は口から出ています。ところが、友人たちとフランス語で話すときには、声は鼻から出ているのです。私にとっては新しい発見でした。

意気軒高なフランス人女学生の4人
随筆5)ドイツ人
この若い女性はドイツ人で名はエレナ。6月16日に会いました。毎日テント泊をしているそうです。大きな荷物を持っているにも拘わらず、この美しい笑顔には、心が洗われる思いがしました。彼女が左手に持っているドイツ語のガイドブックの地図は、とても正確でした。さすが、ワンダーフォーゲル発祥の地だけあると感心しました。私の方が、日程的に早くなっていて、この後お会いすることはありませんでした。

ドイツ人女性エレナ
7/31Monjardinの村からLos Arcosまでの13㎞は過酷でした。炎天下、陰はなく、まして水場などもありません。ただ白い道が延々と続いているだけでした。途中でドイツ人の母と娘の巡礼に会い、ランチを一緒にしました。彼女たちに遅れまいと先に出ましたが、すぐに抜かれました。しばらく行くと何か声がするのですが、よく聞き取れず、そのまま行きました。GPSをみると、コースから外れています。地形を見ると、沢が近くにあり(涸れ沢でしたが)、これに沿って行くとカミノに合流するとわかりましたので、沢沿いの道を歩きました。カミノとの合流点で母と娘の巡礼が待ってくれていました。声がしたのは、彼女たちが私に道が違うと教えてくれたものとわかったので、厚くお礼を言いました。

過酷な13km。前方路上にごく小さくドイツ人母娘が写っています。

随筆5)イギリス人
6/26は、フランスの民宿に泊まりました。英語が全く分からない老婆が宿主で、google Taranslateを頼りに指示を出してきます。食事は近所のレストランでせよというので、出かけました。村はずれの標識までいきましたが、レストランなどありません。諦めて村の方に戻ると、二人ほどこちらに向かってきます。その人たちはレストランを知っていて、今予約したところだというので、連れて行ってもらいました。村はずれをさらに行ったところでした。二人と思ったが後から二人きて、UKから来た2カップルと判明。Midi運河をクルーズしているという優雅なご趣味の人たちでした。彼らは私の年齢に驚き、職歴に驚き、今回の1600㎞のカミノに驚き、私の話にとても興味を示しました。最後には、割り勘もさせてくれず、彼らがご馳走してくれた上に、宿所まで車を呼んで送ってくれました。 この人たちは50歳代でリタイアしているので、体力にまかせて縦横に遊んでいるのはとても壮観で、私など70歳代も終わりになってやっと、遊びだしたものの時すでに遅く、体の自由が利かないという悲劇に見舞われています。これを貧しいと言わずにはおれません。

ミディ運河を優雅にクルーズするイギリス人の2カップルズ。(写真掲載了承済み)

随筆6)西欧人
欧州の人たちは、50歳代後半までにはリタイアし、60代になるとそれまでの貯えと若さにまかせて、精力的に遊び回っています。それができる豊かさがあるのでしょう。また、リタイア前の若い人でも休暇は一か月ほどあるらしく、悠々と旅を楽しんでいます。社会全体にそういう余裕があるのでしょうね。日本はもちろん、アメリカでもそこまで余裕はないと思います。日本では、定年を過ぎても年金だけで暮らせず、定年後仕事をする人がほとんどではないでしょうか。その最たる例がお役人です。本省定年後天下りで2-3回退職金を貰うと聞いていますが、そんな方たちはまだ恵まれているほうで、普通の勤め人が定年になっても年金だけでは不足で、夜警とかガードマンなんかの肉体労働で収入を得なければやっていけないと聞いています。日本は、GDP世界第三位とか言われながらも、なぜそんなに貧しいのか。それは、国が富んでいるものの、個人は貧しいのだと思います。一方、私が四年半出向していたイタリアの会社の社員は、夏に一ケ月の夏休みをとり、海とか山で一ケ月を過ごします。別荘のある人はそこで、ない人はペンションで一ケ月を過ごします。これは普通の人がそうするのです。退職してもこの生活が続けられるのです。これは、たとえ国家は貧しくとも、個人は豊かのだと理解しました。上記随筆7)の英国人も、50代でリタイアしているので、体力にまかせて遊んでいるのはとても羨ましく、私など70代も終わりになってやっと遊ぶ余裕ができた途端、体の自由が利かないという情けない状態です。

随筆7)日本と日本人
2015年にフランス人の道800kmを歩きましたが、日本からの巡礼は2-3人しかおりませんでした。今回は日本から来た巡礼は一人もいませんでした。日本人はいまだに外の世界に出るのに抵抗感があるようで、ごく少数の海外在住経験者を除いて、明治維新以前の世界観とさほど変わっておらず、他の国の人たちと上手にお付き合いができないようです。他の国と上手にお付き合いできないことで、随分と損をしていると思います。
日本は耕地が少ない上に土地がやせています。それで食糧を自給ができないという国家として致命的欠陥があります。エネルギーもありません。さらにあまりに自然災害が多すぎます。災害対応で国の富(すなわち国民の努力)が費消されています。自らが国を守る力も気力もなく、外国頼みなのは国家としての要件を欠いています。もっとも悲しいのは国家のリーダーがおらず、国民に希望がないことです。このような国に、子々孫々住んでいく値打ちがあるでしょうか。テスラ-のイーロン・マスクが「このままでは日本は消滅する」と警告したらしいですが、本当にそうなるでしょう。従って我々の子供、孫の代には国外移住すべきではないでしょうか。

随筆8) 名前-Facebook‐Amazing Harry
ハリー西谷は、本名西谷尚武(にしたにひさたけ)と言います。1968年米国赴任の際に、アメリカ人トップのゴールド氏がニックネームとしてハリーという名前を付けてくれました。それ以降ハリー西谷と名乗っています。また、今回のカミノをFacebookしていた所、友人から Amazing Harry is your new name. と命名頂いたので、大切に使いたいと思います。
Facebookといえば、今回折に触れて投稿し、友達の方々からコメントを沢山いただいて楽しく会話をしました。また、友人の協力で、Facebook Liveなるものを8月20日に行いました。初めての経験でした。

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