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2022.0914.( Wed)  Camino Summary 3)エピソード集

2022.0914.( Wed)
Stayed home. Choir practice for hte day after.

Camino Summary 3)エピソード集

第3部 エピソード集

エピソード 1) こんなところに、、、7/16
「こんなところに日本人が」というテレビ番組がありましたが、それと全く同じことが起こりました。小さなサランスSarranceの村を一巡してから出発。しばらく自動車道N134を行き、カミノの道と交わったところでカミノの道を歩く予定でした。もうすぐカミノの道に入るというその時、追い抜いて行った車が突然Uターン、車から黒髪の女性が現れ丁寧にお辞儀、「こんにちは。」と正しい日本語の発音であいさつされました。えー?こんなところに日本人が!?と驚きました。とにかくNY出発以来48日間日本人には会っていないので、もうびっくり!それと、あと100mほどでカミノの道に入る予定だったので、もしカミノの道に入っていたら、彼女には私は見つけられておらず、大変な偶然でした。翌日の7/17には彼女とご主人と共に、フランス最後の夕食を共にし、壮行会をしてくださいました。ベドウスBedous 近郊に30年ほどお住まいの、中邑みほさんとおっしゃる方でした。

前列左はご主人の二コラさん、右はみほさん、その後ろは飛び入りのオランダ人、マーティン君

エピソード2) 7/25フランシスコ・ザビエル
峠から一週間、7/25にハビエル城に着きました。このお城は、日本人にとっては大事な場所です。このお城で、日本にキリスト教を最初に布教した、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが1506年に生まれたのです。彼はその後パリに行ってイグナチオ・デ・ロヨラと出会い、イエズス会を結成します。その後紆余曲折を経て1549年に来日しました。1549年といえば、信長15歳、秀吉12歳、家康6歳です。来日当時大内氏の庇護を受けて、主に山口県で布教しました。そのご縁でこの近所にホテルヤマグチがあり、わたしはそこに泊まりました。学生の頃、阪急電車神戸線に乗ると、黒い風呂敷に教科書を包んだ六甲学院の生徒さんが目につきました。今回ザビエルのことで調べていたら、六甲学院もイエズス会が建てたものだと知りました。上智大学、名古屋の南山大学、六甲学院、栄光学院など、イエズス会はしっかり日本に根を下ろしていると思います。それにしても、この時代に日本にやってくるのは、命がけでしたでしょうに。使命感でしょうか。スペインの片田舎に居てそんなことを考えました。

7/25 ハビエル城

7/25  説教をするザビエル (城内に展示されている掛け軸)

エピソード3) 7月31日 ワインの泉
7月31日、エステ―ジャの村を出て一時間ほど行くと、人だかりがしていて、そこがイラチェIracheのワインの泉でした。栓をひねれば、とめどもなくワインが流れ出てきます。本当はたらふく飲みたかったのですが、朝なので数杯に止めておきました。

エピソード 4) 8月5日 教会とニワトリ
8月5日、サントドミンゴの教会にはニワトリが飼われています。そのわけはここで奇跡があったためです。
サントドミンゴの奇跡:ここで奇跡があった。昔々巡礼が命掛けだった頃、ある若者が両親と遠くからサンティアゴ目指して歩いて来た。やっとこさこの街に荷物を降ろして宿を取った。その旅籠の娘が若者に一目惚れ。迫るは言い寄るはあの手この手で若者に「付き合ってくださいッ」。しかし若者は冷たく「無視」して宿を立ち去る準備。悔し紛れに娘は若者の荷物に銀のコップを忍び込ませた。そして「彼は泥棒〜〜」と訴えた。当時の法律では泥棒は絞首刑。若者は捕まり広場で吊るされた。ところが、1ヶ月経っても若者は吊るされたまま生きている。両親はサンティアゴの巡礼を終えて戻ってきてビックリ。そして若者は両親に「どうか判事に私の無実を話して下さい。私は聖ドミンゴ様に守られております。」そして、何とか判事に謁見が許された両親、判事は食事中。チキンの丸焼きを頬張る寸前「フン!そやつが生きているなどど言うのはこのニワトリが生きていると言うのと同じ事ジャ!」すると突然丸焼きチキンが立ち上がりコッコロコッコッコ〜〜(スペイン語だと鳴き声これ)と鳴いて若者は絞首刑台から降ろされ両親と故郷へ帰って行ったとさ。出典:https://tabispain.com/santo-domingo-calzada/


教会の中のニワトリ小屋

エピソード5) 8月9日 アタプエルカ原人、2000年世界遺産
午後アタプエルカ原人発掘現場の見学に行きました。アタプエルカ原人については、次の記事を参照ください。
スペイン北部にあるアタプエルカは人口150人ほどの小さな村。ブルゴス県から約15km離れた場所にあるアタプエルカは(中略)広大なカルスト地形のアタプエルカ山脈があり、数多くの洞窟があります。その洞窟では初期人類の人骨や生活の痕跡が発掘され、2000年「アタプエルカの考古遺跡」として世界遺産に登録されました。見つかったものから驚きの事実が判明し、今もなお発掘は続いています。そんな世界遺産であるアタプエルカの考古遺跡を紹介します。アタプエルカが注目されるようになったのは19世紀の末。アタプエルカで鉄道のトンネル工事の際に遺跡が発見されたのですが、実際に発掘が始まったのは1978年です。そして1984年の発掘調査では150体にも及ぶ大量の人骨が発掘され、1992年には完全な人骨も見つかります。これらは最古のもので120万年前のものと言われ、ヨーロッパで見つかっているものでは一番古い時代の骨。世界遺産アタプエルカから発掘された人骨を調査したところ、ネアンデルタール人の祖先と考えられているホモ・ハイデルベルゲンシス、さらにホモ・アンテッサー、ホモ・ハイデルベルゲンシスなどの旧人類から青銅器時代の人類などが生活していたことがわかりました。人類考古学で非常に貴重な発見がされたこの世界遺産は、ヨーロッパで最初に到達した人類の遺跡と考えられているんですよ。現在は発掘現場や洞窟などを見学できます。特に多くの人骨が見つかったシマ・デ・ロス・ウエソスは骨の採掘抗という意味を持ち、観光名所にもなっています。出典:https://skyticket.jp/guide/103702

説明中の案内人が持つ原人の頭蓋骨のコピー

想像図

発掘現場

エピソード 6) 8月22日、オビエゴ橋の伝説
現在水が流れている川を渡るアーチは2つですが、流れていないところを渡るためのアーチは17あります。以前は、この川幅を必要とする流量があったのですが、上流にダムができたので、流量が減り今の状態になったとのことです。巡礼の救護院(hospital)は聖ヨハネ騎士団によって建てられ、その周りに集落が形成されていったそうです。私は、このオビエゴ橋は、ニューヨーク州を流れるハドソン川にかかるTappanzee橋のモデルになったと信じています。いろいろな伝説のある橋ですが、日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会のガイドブックによれば、「聖なる年1434年、ドン・スエロは9人の騎士と共に、この橋を通ろうとするものと戦い、1か月の間、誰もこの橋を渡らせないか、300本以上の槍を折る(勝利する)と宣言。7月10日から8月9日まで、スペイン人、フランス人、ドイツ人、ポルトガル人、イタリア人の挑戦者と戦い、見事に一人として橋を通さず、誓いを守ったという。なお、折った槍は166本。後略」とあります。

現在のオビエゴ橋

エピソード 7) 8月28日 ローマ帝国の金鉱跡を訪ねる
私の大学の友人が、この村、ヴィジャフランカに住むヒメネス氏の友人なので、紹介してもらいました。私は、ヒメネス氏に、「カミノの途中で聞いたのだが、Ponferradaという町のあたりからあるものをローマ街道で運んだそうだが、そのあるものとは何か」と聞きました。彼は、即座に「「それは 『金』だった。明日金鉱跡へ案内しようう。」ということになりました。 入場券を買ってHard Hatをかぶります。それから坑道に入りましたが、十分な明かりがついていました。天井が低いので、時々ゴツンとHard Hatが鳴ります。坑道の終わりは、谷を望む絶壁の中腹で、展望台からも見える所でした。坑道を出て展望台に登り、写真を撮りました。まだ金は出るのかという私の質問に対し、受付の係員は「出るかもしれないが、出ないかもしれない。Unknownをあてにするよりも、入場料は確実に入るので、観光地にする方が得策」なんだそうです。
ローマ人の採掘技術については「Wikipedia ラス・メドゥラス」を参照ください。2000年も前に、このような高度な技術を持っていたローマ人は、またローマ帝国内を縦横にローマ街道を走らせ、宿場を設けていきました。いまでもカミノの多くはローマ街道自体、またはそれに沿って歩いています。これらローマ人の叡智に感心するばかりの100日間でした。

金鉱跡の展望台で、ヒメネス氏と

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