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2022.0913.(Tue) Series-Camino summary 2)スペインに入る

2022.0913.(Tue)
Stayed home. Went to haircut in downtown Ridgewood.

Series-Camino summary 2.
第二部 スペインに入る

Map of the way of St James In Europe (https://en.wikipedia.org/wiki/Santiago_de_Compostela#/media/File:Stjacquescompostelle1.png) by Manfred Zentgraf, November 18, 2006. Creative Commons BY-SA 3.0 license.
「ヨーロッパと呼んでいいのはピレネー山脈まで」とルイ16世に言われ、「ピレネーを越えるとそこはアフリカだった」と ナポレオンに言われたように、ピレネーを超えると、景色は一変します。フランスでは緑が主体だった景観は、峠からは、茶色が主体となります。スペインは、大部分が乾燥地帯なのです。勿論、草木が生えているところもあります。計画的に植林をしているところもたまに見かけますが、背が低く雑木といった感じの樹が生えているか、木がなく草しか生えていない土地が多いです。農業も、機械化、自動化されていると思える箇所は非常に少ないです。これでは、人口は47百万人からあまり増えていかないと思われます。ピレネーを挟んだ、この大きな落差は大きな驚きでした。スペインが過去に海外で征服をしていったのは、本国の土地がやせているのが動機になったのではないかと思わせるような落差でした。こういう驚きは、歩いているからこそわかるもので、観光旅行では絶対に体験できないと思います。

歩く、
一歩ごとに変わる景色
この角を曲がれば何があるのだろうか
あの坂の上まで登れば何が見えるのだろうか
最良、最善の旅は徒歩

というのが、私の「旅信条」です。


7/18 ソンポート峠の旧税関跡

出発から48日目の7月18日にソンポート峠を越えました。峠を越えたカミノは、旧アラゴン王国の中を通るので、アラゴンの道と呼ばれています。アラゴン王国は、一時はカタルニアと連合して隆盛になり、ナポリ、シシリアを領有するほどになりました。6/26にフランスのMontgiscardで夕食をご馳走してくれた英国人の4人グループは、アラゴンの名を聞いたら英国国教会の成り立ちを思い出すと言っていました。英国王ヘンリー8世が、16世紀前半、男子の生まれない王妃キャサリン・オブ・アラゴンを離婚しようと、ローマ教皇に許可を求めますが拒否されます。それならとヘンリー8世は別の教会を作りました。それが今の英国国教会です。トウルーズからポーまではほぼ西に向かっていたカミノは、ピレネー越えの為に南に方角を変えます。ソンポート峠を越えた南麓のJacaからまた西に向きを変え、峠から170kmでフランス人の道に合流します。峠からは、黄色の矢印が巡礼を導いてくれます。この矢印は、巡礼が道に迷わないようにと、オセブレイロという山上の人口60人の村の神父さんが矢印をつける運動をなさったおかげで、私どもは迷わずに済んでいます。

黄色の矢印


7/24 峠からは、茶色が主体になりました。左後ろはUnduezの村、砂漠の中にあります。

峠から一週間、7/25にハビエル城に着きました。このお城は、日本人にとっては大事な場所です。このお城で、日本にキリスト教を最初に布教した、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが1506年に生まれたのです。彼はその後パリに行ってイグナティウス・ロヨラと出会い、イエズス会を結成します。その後紆余曲折を経て1549年に来日しました。1549年といえば、信長15歳、秀吉12歳、家康6歳です。来日当時大内氏の庇護を受けて、主に山口県で布教しました。そのご縁でこの近所にホテルヤマグチがあり、わたしはそこに泊まりました。学生の頃、阪急電車神戸線に乗ると、黒い風呂敷に教科書を包んだ六甲学院の生徒さんが目につきました。今回ザビエルのことで調べていたら、六甲学院もイエズス会が建てたものだと知りました。上智大学、名古屋の南山大学、六甲学院、栄光学院など、イエズス会はしっかり日本に根を下ろしていると思います。それにしても、この時代に日本にやってくるのは、命がけでしたでしょうに。使命感でしょうか。スペインの片田舎に居てそんなことを考えました。

7/25  ザビエル城

7/25  説教をするザビエル (城内に展示されている掛け軸)

峠から10日、7/28に、プエンテ・ラ・レイナ(王妃様の橋)に着きました。早速王妃様の橋に会いに行きました。Arga川にかかる優美な姿は、いつ見てもきれいでした。11世紀にナバーラ王妃(サンチョ3世妃ムニアドナ、またはガルシア3世妃エステファニアともいわれる)が、アルガ川を渡るのに巡礼達が難儀しているのをご覧になって、橋の建設を命じたという伝承が残っています。私は、有難く渡らせて頂きました。

ここからは、カミノのなかで最も人気があり、最も整備が進んでいる道を歩きます。このあたりのフランス人の道は、アルルの道、アラゴンの道に比べると、巡礼の数が一桁多くなる様に思いました。アルルの道、アラゴンの道は、一日10-20人だったと思いますが、フランス人の道になると、一挙に200-300人ぐらい、しかも、サンチアゴに近づくにつれて、その数は右肩上がりになり、最後の100㎞のSarriaからは、一日千人以上が歩いていると私は感じました。
ここ、プエンタ・ラ・レイナには、アラゴンの道以外にも、フランス人の道が合流しますので、フランス側のSan Jean Pied de Portから歩き始めた人、それ以前のフランスのLe Puy, Vesley、Parisなどの諸道から来た人、スペイン国内の最初の宿場である、Roncesvallesから歩き始めた人、また交通の便利なPamplonaから歩き始めた人などが泊まりますので、大きな宿場になっています。ここからは、店も水場も整備されて、巡礼の数も多く、宿場と宿場の距離が短いので、昼食も水も、そんなに神経質になる必要もありません。万が一、宿にたどり着けなかったり、事故に遭っても助けてもらえるという安心感があります。これは、気分的にとても楽でした。さらに、ここから先は、7年前2015年に歩いた道なので、どこがよくてどこがよくないかをわきまえて歩くことができました。

7/28 王妃様の橋

7月31日、エステ―ジャの村を出て一時間ほど行くと、人だかりがしていて、そこがIracheのワインの泉でした。栓をひねれば、とめどもなくワインが流れ出てきます。本当はたらふく飲みたかったのですが、朝なので数杯に止めておきました。

イラーチェのワインの泉

8月5日、サントドミンゴの教会にはニワトリが飼われています。そのわけはここで奇跡があったためです。

サントドミンゴの教会に飼われているニワトリ
サントドミンゴの奇跡:ここで奇跡があった。昔々巡礼が命掛けだった頃、ある若者が両親と遠くからサンティアゴ目指して歩いて来た。やっとこさこの街に荷物を降ろして宿を取った。その旅籠の娘が若者に一目惚れ。迫るは言い寄るはあの手この手で若者に「付き合ってくださいッ」。しかし若者は冷たく「無視」して宿を立ち去る準備。悔し紛れに娘は若者の荷物に銀のコップを忍び込ませた。そして「彼は泥棒〜〜」と訴えた。当時の法律では泥棒は絞首刑。若者は捕まり広場で吊るされた。ところが、1ヶ月経っても若者は吊るされたまま生きている。両親はサンティアゴの巡礼を終えて戻ってきてビックリ。そして若者は両親に「どうか判事に私の無実を話して下さい。私は聖ドミンゴ様に守られております。」そして、何とか判事に謁見が許された両親、判事は食事中。チキンの丸焼きを頬張る寸前「フン!そやつが生きているなどど言うのはこのニワトリが生きていると言うのと同じ事ジャ!」すると突然丸焼きチキンが立ち上がりコッコロコッコッコ〜〜(スペイン語だと鳴き声これ)と鳴いて若者は絞首刑台から降ろされ両親と故郷へ帰って行ったとさ。出典:https://tabispain.com/santo-domingo-calzada/

8月9日 アタプエルカ原人、2000年世界遺産
午後発掘現場の見学に行きました。アタプエルカ原人については、次の記事を参照ください。
スペイン北部にあるアタプエルカは人口150人ほどの小さな村。ブルゴス県から約15km離れた場所にあるアタプエルカは(中略)広大なカルスト地形のアタプエルカ山脈があり、数多くの洞窟があります。
その洞窟では初期人類の人骨や生活の痕跡が発掘され、2000年「アタプエルカの考古遺跡」として世界遺産に登録されました。見つかったものから驚きの事実が判明し、今もなお発掘は続いています。そんな世界遺産であるアタプエルカの考古遺跡を紹介します。アタプエルカが注目されるようになったのは19世紀の末。アタプエルカで鉄道のトンネル工事の際に遺跡が発見されたのですが、実際に発掘が始まったのは1978年です。そして1984年の発掘調査では150体にも及ぶ大量の人骨が発掘され、1992年には完全な人骨も見つかります。これらは最古のもので120万年前のものと言われ、ヨーロッパで見つかっているものでは一番古い時代の骨。世界遺産アタプエルカから発掘された人骨を調査したところ、ネアンデルタール人の祖先と考えられているホモ・ハイデルベルゲンシス、さらにホモ・アンテッサー、ホモ・ハイデルベルゲンシスなどの旧人類から青銅器時代の人類などが生活していたことがわかりました。人類考古学で非常に貴重な発見がされたこの世界遺産は、ヨーロッパで最初に到達した人類の遺跡と考えられているんですよ。現在は発掘現場や洞窟などを見学できます。特に多くの人骨が見つかったシマ・デ・ロス・ウエソスは骨の採掘抗という意味を持ち、観光名所にもなっています。出典:https://skyticket.jp/guide/103702

8/9 アタプエルカ原人の発掘現場

8/9  発掘されたアタプエルカ原人の頭蓋骨コピー

北メセタ台地を行く
8月9日から8月20日、ブルゴスとレオンの間の700m-900mの高原地域を歩きます。ブルゴスもレオンも人口20万人程度の中都会で、華やかな観光地になっていて、どちらも魅力的な町です。一方私は観光が目的ではないので、観光案内的な記述は割愛いたします。BurgosからLeonまでは、Duoro川流域の北部で、カンタブリア山脈の南麓、北メセタと言われる比較的平坦な地域を東から西へと歩きます。これまでと異なり、起伏は少なくなりますが、全体的に標高が高くなります。カミノが通っている地域の標高は700m-900mの高地ですが、スペインの国土の平均標高は660mで、欧州主要国の間ではスイスに次いで平均標高が高い国なのです。 ブドウは600m以下ではよく見かけましたがここでは姿を消し、小麦、ヒマワリ、トウモロコシなどが穏やかに育っていました。 軽井沢よりも少し低い高原地帯ですから、フランスの標高300m前後の農地のような、豊富な農産物は期待できないと思われます。

8/20レオンの大聖堂

8月22日、オビエゴ橋の伝説
現在水が流れている川を渡るアーチは2つですが、流れていないところを渡るためのアーチは17あります。以前は、この川幅を必要とする流量があったのですが、上流にダムができたので、流量が減り今の状態になったとのことです。巡礼の救護院(hospital)は聖ヨハネ騎士団によって建てられ、その周りに集落が形成されていったそうです。私は、このオビエゴ橋は、ニューヨーク州を流れるハドソン川にかかるTappanzee橋のモデルになったと信じています。いろいろな伝説のある橋ですが、日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会のガイドブックによれば、「聖なる年1434年、ドン・スエロは9人の騎士と共に、この橋を通ろうとするものと戦い、1か月の間、誰もこの橋を渡らせないか、300本以上の槍を折る(勝利する)と宣言。7月10日から8月9日まで、スペイン人、フランス人、ドイツ人、ポルトガル人、イタリア人の挑戦者と戦い、見事に一人として橋を通さず、誓いを守ったという。なお、折った槍は166本。後略」とあります。

8/22オビエゴ橋

レオン山地を超える 8/23-8/31
これからの10日余りの間は、Leon山地などの山を越えて歩くことになり、今までの平原歩きとはかなり異なって、起伏の多いカミノになります。スペインのカミノの中での最高地点1505mの鉄の十字架とかガリシア州最初の村で山頂にある村、O Cebreiro 1300mを超えていきます。Loen 820m. 鉄の十字架 1505m, Ponferrada 550m, O Cebreiro 1300m, Triacastera 670mと今までにない登り下りで、熊野古道小辺路ほどではありませんが、それでもカミノにすればきつい箇所と言えます。この下りのおかげで、心配していた腰痛が再発しました。

8/30 山上の村、オセブレイロ1300m

8月28日 ローマ帝国の金鉱跡を訪ねる
私の大学の友人が、ここヴィジャフランカに住むヒメネス氏の友人なので、紹介してもらいました。私は、ヒメネス氏に、カミノの途中で、Ponferradaあたりからあるものをローマ街道で運んだそうだが、そのあるものとは何かと聞きました。彼は、即座に「「それは 『金』だった。明日金鉱跡へ案内しようう。」ということになりました。 入場券を買ってHard Hatをかぶります。それから坑道に入りましたが、十分な明かりがついていました。天井が低いので、時々ゴツンとHard Hatが鳴ります。坑道の終わりは、谷を望む絶壁の中腹で、展望台からも見える所でした。坑道を出て展望台に登り、写真を撮りました。まだ金は出るのかという私の質問に対し、受付の係員は「出るかもしれないが、出ないかもしれない。Unknownをあてにするよりも、入場料は確実に入るので、観光地にする方が得策」なんだそうです。
ローマ人の採掘技術については「Wikipedia ラス・メドゥラス」を参照ください。2000年も前に、このような高度な技術を持っていたローマ人は、またローマ帝国内を縦横にローマ街道を走らせ、宿場を設けていきました。いまでもカミノの多くはローマ街道自体、またはそれに沿って歩いています。これらローマ人の叡智に感心するばかりの100日間でした。

8/28ラス・メドゥラスのローマ帝国金鉱跡

カミノ大団円を迎える
長女の尚子がご主人のBarryと共に、最後の100㎞を一緒に歩くために9月1日にサリアの町に来てくれて、9月2日から一緒に歩き始めました。ここから歩くと、100㎞以上になり、巡礼証明書がもらえます。100㎞の標識で3人で写真を撮りました。9月8日には、3人で、サンティアゴに到着し、巡礼証明書と、公式距離証明書をもらいました。翌日正午の礼拝に出席し、9月10日のイベリア航空で帰米しました。
 
9/2あと100㎞の標識にて


9/8 サンティアゴ大聖堂にて

巡礼証明書

公式距離証明書

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